伝記
エヴフィミヤ・ウラジミロヴナは、キエフ大公ウラジーミル2世モノマフの娘で、ハンガリー王妃となった人である。ハンガリー語ではエウフェーミアと呼ばれる。生年ははっきりせず、1099年とする記述がある。母は名も出自も伝わっていない。
1112年ごろ、エヴフィミヤはハンガリー王カールマーンと結婚した。このとき十代の少女だったと記される。カールマーンは中世ヨーロッパでも屈指の学識ある君主とされ、1110年に先の妻フェリシアを亡くしていた。当時は国どうしの結びつきを固めるために王家の婚姻が用いられた時代で、この結婚もキエフとハンガリーの関係を深めるものとされた。ところが、カールマーンは重い病に苦しんでおり、エヴフィミヤの姦通を見つけたとして、すぐに彼女をキエフへ送り返した。送り返されたのは1114年ごろともされる。ただ、離縁の本当の理由はわかっていない。姦通の訴えは後から出たものともいわれ、政治的な思惑があったのではないかとみる研究者もいる。
エヴフィミヤは、キエフの父の宮廷で息子ボリスを産んだ。ボリスは1113年に生まれたとされる。カールマーンはこの子を自分の子と認めなかった。ハンガリー宮廷は、ボリスは正統な子ではないという立場をとった。一方で、父親が誰かを今ある資料から確かめることはできないともされる。カールマーンは1116年2月3日に死去した。のちにボリスは、ハンガリー王位への継承権を主張する者となった。1130年代には、カールマーンの甥にあたる盲目のベーラ2世(在位1131年から1141年)の敵が、ボリスをハンガリーの王座に就けようと企てた。
エヴフィミヤ自身は、その後キエフ近郊の修道院に入り、残りの人生をそこで過ごした。修道女になったともいわれる。厳しい噂の立つなかでも、高い地位と敬意を保ったという。1139年4月4日にキエフで死んだ。1138年没とする記述もある。ベレストヴォの救世主教会に葬られた。ボリスはその後も何十年にもわたり、ポーランド、キエフ、神聖ローマ帝国、ビザンツの支持を頼みに王位への要求を唱え続け、1155年か1156年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ゴドフロワ1世 (ルーヴェン伯) (1139年没)
- ジョフロワ1世 (ナミュール伯) (1139年没)
- ヤロポルク2世 (1139年没)
- シグル狂気王 (1139年)
- ヴァルラム2世 (リンブルフ伯) (1139年没)
同じ地域に関係する人物
- ピョートル・ストルイピン (1911年没)
- ダニロ・ザボロトニー (1929年没)
- アーデルハイト・フォン・キエフ (1109年没)
- オクサナ・シュヴェッツ (2022年没)
- Borys Oliynyk (2017年没)