伝記
フルク5世は、1089年または1092年に生まれ、1143年11月13日に没したフランスの貴族で、アンジュー伯、のちにエルサレム王フルク1世となった。アンジュー伯フルク4世とベルトラード・ド・モンフォールの子で、同名の父と区別するため、周囲から若伯と呼ばれた。母ベルトラードは1093年の聖霊降臨祭の日に夫の元を去ってフランス王フィリップ1世の妃となり、王と母は教会から破門されたが、父は王に忠実な臣下であり続けた。母は息子のフルクを王のもとへ連れて行ったとされ、フルクは宮廷で育った。父と争った異母兄ジョフロワ4世が戦死すると、アンジューの父のもとへ戻った。このとき彼を連れ帰ったアキテーヌ公ギヨーム9世は、フルクを捕虜にし、解放と引き換えに国境紛争地の割譲を父に求めた。フルクは約1年の捕虜生活ののち解放された。赤毛でずんぐりした体型とされ、ティルスのギヨームは信心深く施しを惜しまない人物と評した一方、人の名前と顔を覚えるのが苦手で側近に頼りすぎるとも記した。
1109年に父が没すると、20歳前後でアンジュー伯位を継ぎ、同年にメーヌ伯エリー1世の娘エランブルジュと結婚した。1110年に義父が没するとメーヌ伯領を併合した。当初はフランス王ルイ6世と同盟し、イングランド王ヘンリー1世と敵対したが、1112年にシュルーズベリー伯が逮捕されて劣勢になると和睦し、翌1113年にメーヌでヘンリー1世に臣従して、長女マティルドを王太子ウィリアム・アデリンと婚約させた。その後ふたたびルイ6世とともにヘンリー1世と戦い、1118年にアランソンで勝利したが、同じ年に和睦した。1120年ごろにはエルサレムへ巡礼し、テンプル騎士団と聖地の守備にあたった。1123年に次女シビーユをギヨーム・クリトンと結婚させてヘンリー1世に反抗したものの、教皇の介入で結婚は無効にされた。1126年に先妻を亡くし、1128年には嫡男ジョフロワを、ヘンリー1世の娘マティルダと婚約させた。
同じ1128年、エルサレム王ボードゥアン2世が長女メリザンドの夫を求めてフランスへ使者を送り、ルイ6世の推薦でフルクが選ばれた。フルクは1129年にアンジュー伯領をジョフロワに譲ってエルサレムへ旅立ち、メリザンドと再婚した。1131年にボードゥアン2世が没すると、夫婦で王位を継いだ。当初はフルクが実権を握り、アンジュー出身の貴族を側近に登用したため、現地の諸侯と不仲になった。1134年にはヤッファ伯ユーグ2世が反乱を起こした。これは貴族の支持を得られず失敗したが、フルクがメリザンドを蔑ろにしていたことも一因だったため、以後は妻を尊重し、1136年ごろからメリザンドの影響力が強くなった。1136年には聖ヨハネ騎士団に要衝ベイト・ジブリンを任せた。1137年にはダマスカスの支配者ウヌルの要請でホムスの救援に向かったが、ザンギーに敗れ、身代金と砦を渡して退いた。1140年にザンギーがダマスカスを包囲すると、ふたたびウヌルの要請に応えて援軍を率い、ザンギーを撤退させた。これをきっかけに両国は同盟を結んだ。1143年、アッコで狩猟中に落馬して没し、遺体は聖墳墓教会に葬られ、幼い息子ボードゥアン3世が王位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- 耶律大石 (1143年没)
- アリー・イブン・ユースフ (1143年)
- Konrad II of Wurttemberg (1143年)
- マームズベリのウィリアム (1143年没)
- アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン (1143年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェイコブ・ジヴ (2023年没)
- モーセ・コルドベロ (1570年没)
- エメリー・ド・リュジニャン (1205年没)
- ウード (ヌヴェール伯) (1266年没)
- ユーグ3世 (ブルゴーニュ公) (1192年没)