伝記
トビアス・ミカエル・カレル・アッセルは、1838年4月28日にアムステルダムのユダヤ人の家庭に生まれたオランダの法律家、法学者である。父はカレル・ダニエル・アッセル、祖父はカレル・アッセルといった。アムステルダム大学とライデン大学で法学を学び、1862年からアムステルダムのアテネウム・イルストレ(のちのアムステルダム大学)で法学の教授を務めた。1880年にはオランダ王立芸術科学アカデミーの会員となり、1904年には国務大臣に任じられた。学者としては、ジョン・ウェストレークらと国際法と比較立法の雑誌を共同で創刊し、1873年には国際法学会の設立にも加わった。
彼は国際私法の分野の指導的な法律家で、国境を越える私人の関係を律する健全な法の枠組みが、平和と安定を促すと固く信じていた。1893年には、国際私法の分野で卓越した世界的な機関とされるハーグ国際私法会議の、第1回外交会期の招集を主導した。会議は今日まで続いている。この会期に参加したのは、オーストリア=ハンガリー、ベルギー、フランス、ドイツ、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ポルトガル、ルーマニア、ロシア、スペイン、スイスのの12か国で、いずれも欧州の国々だった。彼はこの会期の議長に選ばれ、1894年、1900年、1904年の第2回から第4回の会期でも再選された。彼の指導のもと、この会議は、婚姻、離婚、後見(1902年)、民事訴訟手続、婚姻の効力、市民権の剝奪(1905年)といった分野で、国際私法の規則を統一する複数の多国間条約を作り上げた。
また、オランダの代表として、1899年と1907年の二度のハーグ平和会議に出席し、経済の分野で強制仲裁の原則を導入すべきだと主張した。国際紛争を平和的に解決する世界で最初の仕組みとして、国際常設仲裁裁判所の創設に貢献した。1902年には、この裁判所のもとで、二つの国が持ち込んだ国際紛争を審理する最初の仲裁裁判の一員を務めた。この事件は、カリフォルニアの敬虔基金事件と呼ばれる。のちにハーグ国際法アカデミーとなる機関の設立にも関わったが、1923年の創立を見ることはなかった。彼の構想は、国際紛争の解決に仲裁を重んじる立場に立つもので、1899年と1907年の会議で整えられた仲裁の規定や、国際私法会議の基礎になった。
1911年、第1回ハーグ平和会議で提唱された国際常設仲裁裁判所の創設と、ハーグ国際私法会議の設立に果たした功績により、アルフレート・フリートとともにノーベル平和賞を受賞した。12月10日の授賞式で、ノーベル委員会の委員長は、国際私法の分野での業績と、ハーグ会議の確立を特に強調し、彼を17世紀のオランダの国際法の先駆けの後継者、あるいは再興者であり、当代のグロティウスにあたる、と語った。彼は国際私法を、国家間の平和を支える基礎の一つとみなして、生涯にわたってその整備に力を注いだ。1913年7月29日にハーグで没した。彼の名は、国際私法と国際公法、欧州法、国際商事仲裁の研究所であるアッセル研究所に残っている。生まれはアムステルダム、没したのはハーグである。ユダヤ百科事典にも、その名の項目がある。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンティノス・ツィクリティラス (1913年没)
- ヴァーンベーリ・アールミン (1913年没)
- レジナルド・リー (1913年没)
- ゾフィア・フォン・ナッサウ (1913年没)
- Gregorio Maria Aguirre y Garcia (1913年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィレム・ペイペル (1947年没)
- ダフィット・ベック (1656年没)
- パウル・ヘルマン (1695年没)
- カール・ルートヴィヒ・ブルーム (1862年没)
- ウィレム・バイテウェッヘ (1624年没)