伝記
アルフレッド・ラッセル・ウォレスは、1823年1月8日にウェールズのモンマスシャー州ウスク近郊で生まれたイギリスの博物学者、生物学者、探検家である。アマゾン川とマレー諸島を広く実地に探査し、インドネシアの動物の分布を二つの異なる地域に分ける境界線、ウォレス線を特定したため、生物地理学の父と呼ばれることもある。ダーウィンとは別に自らの自然選択説を見いだし、ダーウィンの理論の公表を促した。父トマスは法務官で社会的地位は低くなかったが、暮らしは貧しく、母メリー・アンはハートフォードの中流階級の出であった。5歳のとき、一家はロンドン北部のハートフォードに移った。ウォレスは、生物学の専門教育を受けたことのない在野の研究者である。小学校に通ったが、家計の事情から卒業前の1836年に、見習い工だった兄ジョンのいるロンドンへ移り、その後は長兄ウィリアムのもとで見習い測量士となった。ロンドンの職工学校で本を読み、講義に出て、トマス・ペインやロバート・オウエンのような急進的な社会改革思想に出会った。
1837年にウィリアムとロンドンを離れて各地を転々とし、1843年に仕事の行き詰まりから兄と別れた。短い失業の後、レスターの学校の講師となり、スケッチ、測量、地図作成を教えた。レスターの図書館で多くの時間を過ごし、マルサスの『人口論』を読んだ。ある日、若いアマチュア昆虫学者のヘンリー・ベイツと出会った。ベイツはわずか19歳でカブトムシの論文を発表していた。二人はすぐに友人となり、ウォレスは昆虫採集を始めた。1845年にウィリアムが死ぬと講師を辞め、ウェールズのニースで鉄道工事の土木技師となった。田園地方の仕事の合間に、昆虫採集への情熱を満たすことができた。1846年秋に近くの小さな家を買って、母と妹と暮らし始め、ベイツと頻繁に文通した。匿名で出されたチェンバースの進化論の著作や、ダーウィンの『ビーグル号航海記』、ライエルの『地質学原理』などを読みあさった。
フンボルトやダーウィンなど、初期の探検博物学者の手記に触発され、ベイツを誘って海外での調査を決意した。二人は1848年にブラジルへ出発した。目的は、アマゾンの熱帯雨林で昆虫などの標本を集め、イギリスに戻ってコレクターに売ること、そして種の変化の証拠を集めることだった。ベレン近郊でともに収集した後、別れて内陸へ向かった。ウォレスは4年間、ネグロ川を調査し、標本を集め、出会った民族や言語、地理、動植物相をノートに記した。1852年7月にイギリスへの帰途に就いたが、出発から28日後に船の貨物から出火し、コレクションはすべて失われた。ボートで10日間漂流した後、他の帆船に救助された。帰国後は標本の保険金で18か月を送り、その間に6つの論文と2冊の本を書いた。
1854年から1862年までは、現在のマレーシアとインドネシアで探検し、標本を集めた。バリ島とロンボク島の狭い海峡を隔てて、大きく異なる二つの動物相が隣り合っていることを発見し、その観察が生物地理学の分布境界線の提案につながった。この線は、のちにハクスリーによってウォレス線と名付けられた。マレー諸島では12万5千以上の標本を集め、うち8万が甲虫で、1000以上が新種として記載された。探検の記録は『マレー諸島』として出版され、19世紀の科学探検書で最も影響力と人気のある一冊となった。心霊主義の唱道や、人間の精神の非物質的な起源への関心は、科学界と緊張を生んだ。社会経済の不平等にも目を向けた。1913年11月7日に没した。
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