HISTORICAL PERSON · 1913年没

フランシスコ・マデロ

メキシコの革命家で第33代大統領。ディアスの長い独裁に反対して選挙の不正を訴え、1910年に一斉蜂起を呼びかけメキシコ革命の発端をつくった。就任後、ウエルタのクーデターで辞職を強いられ処刑された。

生涯
1913年没
死亡地
メキシコ合衆国(メキシコシティ)
出生地
メキシコ合衆国(パラス・デ・ラ・フエンテ)
出典
世界地図
メキシコ合衆国(メキシコシティ)

伝記

フランシスコ・イグナシオ・マデロ・ゴンサレスは、1873年10月30日に生まれ、1913年2月22日に没した、メキシコの革命家、政治家で、メキシコ革命の発端をつくった大統領である。コアウイラ州パラスのロサリオ農場で、フランシスコ・マデロとメルセデス・ゴンサレス・トレビーニョの息子として、メキシコで最も裕福な一家のひとつに生まれた。祖父エバリスト・マデロは、巨万の財産を築き、1880年から1884年までコアウイラ州知事を務めた人物である。マデロはアメリカのメリーランド州ボルチモア、フランスのヴェルサイユ、カリフォルニア大学バークレー校で教育を受け、パリの高等商業学校でも学んだ。

独裁者ポルフィリオ・ディアスの支配下での貧困層の苦境に影響され、1904年にベニート・フアレス民主クラブに加わって、政治と関わるようになった。思想的には保守派で、裕福な大農場と繊維工場の主として、一時はディアス派の幹部だったが、ディアスの長年の独裁に反対した。1908年の著書『1910年の大統領継承』では、有権者がディアスの再選を阻止するよう呼びかけた。1909年に「再選反対センター」を設立して週刊紙を発行し、最大の反対勢力となった。彼は、体制が必然的に社会革命につながることを心配し、大衆の暴動から指導層を守る寡頭政治の支持者だったが、ディアスに農民と無産階級への譲歩を提案し、それが過激な思想の抑制になることを望んだ。

翌年の大統領選挙に向けて反対勢力を結集して出馬を目指したが、1910年6月に反乱煽動の容疑でモンテレイで逮捕され、サン・ルイス・ポトシで収監された。選挙は獄中に行われ、ディアスが再選され、9月に就任すると、マデロは恩赦で釈放された。彼はそのままアメリカに亡命した。10月5日、亡命中のテキサス州で選挙の不正とディアスの当選無効を主張し、11月20日に一斉蜂起するよう呼びかけた。これが後にメキシコ革命と呼ばれる。革命の動きはすでに広がっており、パンチョ・ビリャがチワワ州で、パスクアル・オロスコも同州北部で蜂起した。マデロは1911年3月にビリャ、オロスコの部隊と合流し、5月に反乱軍はシウダー・フアレスを占領した。ディアスは停戦交渉に応じ、1911年5月25日に辞職した。

マデロは6月7日にメキシコ市に入り、10月に大統領選挙を行うと発表した。サパタと会談したが、サパタのインディオへの土地要求と、マデロの武装解除要求とで対立し、物別れに終わった。選挙でマデロは勝利し、同年11月に大統領に就任して、副大統領にピノ・スアレス、国防相にカランサ、軍司令官にウエルタを任命した。全国農地委員会と労働省を設立したが、旧支配層の権益を保護したため、サパタに反逆者と呼ばれた。サパタがゲリラ活動を始め、新政権での待遇に不満を持つオロスコも蜂起した。マデロは反乱の掃討をウエルタに命じ、ウエルタは9月に反乱を鎮圧し、オロスコとビリャはアメリカに亡命した。

1913年1月にウエルタを解任したが、2月9日に反乱が発生すると、再び首都警備隊司令官に任命した。2月18日、ウエルタはフェリックス・ディアス及び米国大使ウィルソンと共謀してクーデターを実行した。マデロは辞職を強いられ、ウエルタが21日に暫定大統領を宣誓した。マデロと副大統領のピノ・スアレスは、22日にメキシコシティの刑務所へ移送される途中で処刑された。兄弟のグスタボも殺された。これらの事件は「悲劇の十日間」と呼ばれる。このとき駐墨大使だった堀口九萬一は、マデロ大統領の家族を危険を顧みず保護したといわれる。

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