伝記
ジョージ・ウェスティングハウス・ジュニアは、1846年10月6日に生まれたアメリカ合衆国の技術者、実業家で、電気産業の先駆者である。機械工場所有者の息子に生まれ、機械とビジネスに才能があった。最初の発明であるロータリー式蒸気機関は、19歳のときの作品である。21歳のときには、脱線した車両を線路に戻す道具などを発明した。そのころ、機関士が相手の列車を見ながら、ブレーキシステムの限界で間に合うように止められなかった列車事故を目撃した。当時のブレーキは、制動手が車両の屋根の上を走り回って、各車両のブレーキを手で掛けて回るものであった。
1869年に圧縮空気を用いた自動空気ブレーキを発明した。機関車の空気圧縮機と、各車両の空気だめと特別なバルブを使い、列車の全長に引いた空気管で空気を補給してブレーキを制御し、全ての車両に同時にブレーキを掛けたり緩めたりするものだった。空気管が外れると列車全体にブレーキが掛かる、フェイルセーフ機能も備えていた。1872年3月5日に特許を取得し、製造・販売のためにウェスティングハウス・エア・ブレーキ社が設立された。まもなく彼の発明はほとんどの鉄道車両で採用された。
電力では、エジソンのライバルの一人となった。1882年にエジソンは、ロウワー・マンハッタンの59の利用者へ直流110ボルトを供給する、世界初の送配電システムの運用を開始した。ウェスティングハウスは、このシステムが大規模に発展させるにはあまりに非効率だと結論した。低電圧の直流では損失が大きい。交流なら、変圧器で電圧を上げて送電し、利用者の近くで電圧を落として使える。ゴーラールとギブスが開発した変圧器は、大量の電力を処理でき、簡単に製造できる初めてのものであった。1885年に彼はこの変圧器とシーメンス製の交流発電機を輸入し、ピッツバーグで交流送電の実験を始めた。ウィリアム・スタンリーの助けを得て変圧器の設計を改良し、1886年に最初の多電圧交流送電システムをマサチューセッツ州に設置した。同年、ウェスティングハウス・エレクトリック・アンド・マニュファクチャリング・カンパニーを設立した。
交流電動機の開発は難しかったが、ニコラ・テスラが多極式電動機の原理をすでに考案していた。ウェスティングハウスはテスラの交流電動機の特許の権利を取得し、テスラを1年間コンサルタントとして雇った。1888年から大規模な多極交流電動機の導入が始められ、これが現代のアメリカの電力システムの基礎となった。交流送電の普及は、直流との対決である電流戦争を招いた。エジソンは、高電圧は本質的に危険だと主張したが、ウェスティングハウスは、危険は管理でき、利点がまさると反論した。1890年8月、ウィリアム・ケムラーが電気椅子で処刑される最初の人間となると、ウェスティングハウスは優秀な弁護士を雇い、電気処刑を「残酷で異常な刑罰」と非難した。
1893年には、シカゴ万国博覧会に交流送電システムを建設する契約を結び、技術の大きな宣伝となった。ナイアガラの滝に交流発電機を設置して、約40キロメートル離れたバッファローへ送電する最初の長距離送電網も請け負った。発電への関心を移し、往復動式の蒸気機関は非効率だと感じて、パーソンズの蒸気タービンの権利を買い取って改良した。のちには船舶推進用の蒸気タービンの開発に進んだ。1914年3月12日に没した。
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