伝記
オーギュスト・マリ・ジョゼフ・ジャン・レオン・ジョレスは、1859年9月3日にフランス南西部タルヌ県のカストルで生まれた社会主義者、政治家である。母方の家の家屋で生まれ、父ジュールは織物商で、小さな農場も経営していた。母アデライドは、カストルの布地製造業者の家の出で、長男のジャンと弟ルイの二人の教育を引き受けた。ジャンはカストルのリセで非常に優秀な生徒となり、視学官フェリクス・ドゥルトゥールの目にとまった。両親は郵便の仕事に就かせようとしていたが、ドゥルトゥールは説得して、共和国のエリート教育を受けさせた。奨学金を得てパリのリセ・ルイ・ル・グランなどで学び、1878年に全国学力コンクールで一位となり、同年に高等師範学校の入学試験にベルクソンを抑えて首席で合格した。1881年に哲学の教授資格試験を3位で通った。
高校教師としてアルビのリセで教えたのち、1882年にトゥールーズに移り、文学部の講師を務めた。1883年から1885年にはトゥールーズ大学の哲学教授として教壇に立った。アルビの乾酪商の娘ルイーズ・ボワと結婚し、二人の子が生まれた。1885年にタルヌ県から下院選挙に立候補して当選し、最年少の議員となって、中道左派に属した。1889年の選挙で落選すると、トゥールーズに戻って学究生活を送り、トゥールーズ大学医学部の設立にも尽力し、1891年にルターらのドイツ社会主義の思想に関する論文などで哲学博士号を取得した。
はじめは穏健共和主義を支持し、クレマンソーに代表される急進主義や社会主義に反対したが、1890年代後半に社会主義者に転向したとされる。1892年にカルモーで社会主義者と見なされた鉱山労働者が解雇されてストライキが起きると、これを強力に支援した。翌1893年の選挙で再選されたが、1898年に再び落選した。しかし、その4年間に、卓越した雄弁と知性によって左翼政治家の筆頭としての存在感を増していった。新聞の編集に携わり、ドレフュス事件ではドレフュスの無罪を主張する著書『証拠』を刊行した。社会主義者として初めて入閣したミルランを批判する声もあったが、ジョレス自身は支持した。
1902年の選挙で三度目の当選を果たした。1904年に『ユマニテ』紙を創刊して編集し、1905年のルーアンの会議のあと、ゲードとともに統一社会党を創設して、社会主義政党統一の第一歩とした。同年、フランスの社会主義政党は、第二インターナショナルのフランス支部としてフランス社会党を結成した。この年の政教分離法の採択でも、重要な役割を果たした。改良主義的な立場のため、革命的な左派の一部には反対された。大著『フランス大革命史』4巻は、労働者と農民の立場から見た社会史として初めての試みの一つで、後のルフェーブルやマティエの革命研究に刺激を与えた。
第一次世界大戦直前のナショナリズムの高揚のなかで、帝国主義戦争に反対し、和平を呼びかけた。1914年7月31日、熱狂的な愛国者ラウール・ヴィランによって、カフェ・クロワッサンで暗殺された。それは、大戦が勃発し、フランスが総動員体制に入る前日だった。
同じ年に亡くなった人物
- アルフレッド・セイヤー・マハン (1914年没)
- ジョージ・ウィリアム・ヒル (1914年没)
- ジャン=バティスト・フォール (1914年没)
- ピウス10世 (ローマ教皇) (1914年没)
- テオドール・キッテルセン (1914年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン=ジョルジュ・ノヴェール (1810年没)
- ガブリエル・ラメ (1870年没)
- ポール・ペリオ (1945年没)
- ジェルメーヌ・タイユフェール (1983年没)
- エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス (1794年没)