HISTORICAL PERSON · 1914年没

フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ

オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者。サラエボでセルビア人民族主義者に暗殺され、これがサラエボ事件となった。

生涯
1914年没
死亡地
ボスニア・ヘルツェゴビナ(サラエヴォ県 / サラエヴォ)
出生地
オーストリア共和国(グラーツ)
出典
世界地図
ボスニア・ヘルツェゴビナ(サラエヴォ県)

伝記

フランツ・フェルディナントは、1863年12月18日にグラーツで生まれ、1914年6月28日に没した、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者で、エスターライヒ=エステ大公である。サラエボでセルビア人民族主義者ガヴリロ・プリンツィプに暗殺され、これが第一次世界大戦の発端となった。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟カール・ルートヴィヒ大公と、両シチリア王フェルディナンド2世の長女マリア・アンヌンツィアータの長男である。1875年に従兄のフランチェスコ5世が死去すると、オーストリア=エステ大公を相続した。1877年に帝国軍に入隊して中尉となり、1894年に少将に昇進し、1913年には高齢のフランツ・ヨーゼフ1世に代わって全軍監察官に就任して、軍権を掌握した。1892年から約1年をかけて世界一周の見聞旅行に出かけ、日本を訪れたのち、太平洋を渡ってカナダと米国をまわり、ヨーロッパに戻った。

1889年1月に従兄のルドルフ皇太子が情死し、父カール・ルートヴィヒが皇位継承者となった。1895年、フランツ・フェルディナントは当時不治の病とされた結核の疑いがあると診断され、旅団長の地位を降りたいと申し出た。弟オットー・フランツが後継者に選ばれるのではないかという憶測も流れたが、南チロルのメラーノで療養して、1年半ほどで健康を回復した。1896年に父が腸チフスで死去すると、伯父の皇位継承者に認定され、この頃から政治活動を始めた。そのころ彼には、ボヘミアの伯爵家出身で、テシェン公妃イザベラの女官だったゾフィー・ホテクという恋人がいた。二人は1894年にプラハで出会い、関係を隠していたが、彼が腕時計をテシェン公家に忘れたことをきっかけに露見した。

帝室は由緒ある王家の出身者以外との結婚を認めず、反対したが、フランツ・フェルディナントはゾフィー以外との結婚を拒んだ。1900年6月28日、フランツ・ヨーゼフ1世は、ゾフィーが皇族としての特権をすべて放棄し、生まれる子には帝位を継がせないことを条件に、結婚を承認した。同年7月1日の結婚式には、皇帝は出席せず、他の皇族の出席も許さなかった。結婚後もゾフィーは冷遇され、公式行事では、幼児を含むすべての皇族の末席に座ることを余儀なくされた。政治思想では、保守カトリックの立場から中央集権的な国家を目指しながら、異民族には自由主義的で、チェコ人と南スラヴ系住民の自治権の拡大を唱えた。セルビアに対しても慎重で、軍部の強硬派に、高圧的な態度はロシアとの戦争を招いて両帝国を破滅させると警告した。

1914年6月28日、ゾフィーとともに共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首府サラエボへ、軍事演習の視察に出かけた。午前10時15分ごろ、夫妻を乗せた車列がサラエボ市内に入ると、黒手組のメンバーが手榴弾を投げたが、後続の車に当たり、乗員が負傷した。夫妻は市庁舎に逃げ込み、その後、負傷者を見舞うために病院を訪問することにした。しかし運転手に行き先の変更が伝わらず、車が方向転換しようとしたところ、通りのカフェに偶然居合わせたプリンツィプが拳銃を発砲した。1発目はゾフィーの腹部に、2発目はフランツ・フェルディナントの首に向かい、彼は数分後に絶命し、ゾフィーも病院に向かう途中で死亡した。事件の後、オーストリア=ハンガリーはセルビア王国に宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発した。貴賤結婚のため、夫妻はカプツィーナー納骨堂に入れないことを悟っており、居城の納骨堂に埋葬された。

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