伝記
セルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテは、1849年6月29日(ユリウス暦6月17日)に生まれ、1915年3月13日(ユリウス暦2月28日)に没した、帝政ロシア末期の政治家である。鉄道会社勤務から政界に登用された異色の経歴をもち、運輸通信大臣、大蔵大臣、大臣委員会議長を歴任し、1905年10月には初のロシア帝国首相となって、1906年の国家基本法の設計者の一人となった。蔵相としては金本位制の採用やシベリア鉄道などの鉄道建設によって、ロシアの工業化に貢献した。
グルジアのチフリス(現トビリシ)に生まれた。父ジュリアスはルター派のバルト・ドイツ人で、技術官としてロシア政府に勤め、母エカテリーナはロシア貴族の出身であった。父は結婚に際してロシア正教に改宗した。セルゲイは5人兄弟の一人で、母方の祖父母のもとで育った。のちに有名になるブラヴァツキー夫人は従姉にあたる。政敵は彼を「ドイツ人」と指弾することがあったが、それは出自の誤解にもとづくものだった。16歳までチフリスで育ち、学問よりも音楽やフェンシング、乗馬に興味を示す生徒であった。1866年にオデッサの大学の物理・数学科に進み、1870年にトップの成績で卒業した。
当初は理論数学の教授を目指したが、周囲からは貴族にはなじまない進路と見られ、運輸通信大臣のボブリンスク伯爵に、鉄道分野で実績を積むよう説得された。ウクライナの鉄道会社で6か月の実習を行い、期間の終了時に事務所の主任を任された。1871年に公務員の職に就き、切符販売に始まった鉄道業務は20年におよび、経営者として頭角を現した。1875年の末に、オデッサ鉄道で列車が大破する事故が起き、逮捕されて禁固4か月の刑を受けたが、露土戦争での輸送に最大限の力を尽くす意志を示し、元帥の要請で禁固2週間に減刑された。釈放後は、列車運行の遅延を克服するため、新しい運行方式を考案した。1883年に著した『鉄道運賃の原理』は注目された。1889年の論文で、リストの学説にもとづき、輸入品に関税を課して国内産業を守るべきだと主張した。同年、大蔵省の鉄道事業局長に迎えられ、皇帝アレクサンドル3世がこの登用を後援した。
1892年2月に運輸通信大臣に任じられ、同年8月には鉄道建設に難色を示してきたヴィシネグラツキー蔵相に代わって蔵相となり、1903年までの11年間その地位にあった。予算、財政、通貨の最高責任者として、海外貿易、関税、国内交易・産業を管理下に置き、皇帝に10年間でロシアをヨーロッパの経済大国にすると約束した。蔵相としてまず取り組んだのは、全長8,000キロメートルにおよぶシベリア鉄道の建設である。この鉄道を、ヨーロッパとアジアの交通や諸国家の経済関係に根本的な変革をもたらすものと捉え、皇太子ニコライを議長とする特別委員会を設置した。莫大な費用や難工事に加え、地主貴族から、移民が容易になれば地価が下がるとして根強い抵抗があった。1894年にはドイツと10年間の商業協定をロシアに有利な条件で結んだ。同年、アレクサンドル3世は、死の床で皇太子に、最も有能な大臣であるウィッテによく耳を傾けるよう言い残した。のちに日露戦争の講和交渉ではロシア側全権を務め、ポーツマス条約により伯爵の爵位を得た。
同じ年に亡くなった人物
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- ダニロ・イリッチ (1915年没)
- アーサー・ヒューズ (1915年没)
- クララ・イマーヴァール (1915年没)
- ヴィルヘルム・ヴィンデルバント (1915年没)
同じ地域に関係する人物
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- ボリス・ティシチェンコ (2010年没)
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- アレクセイ・スピリドノフ (1998年没)
- ヴェーラ・ザスーリチ (1919年没)