伝記
レミ・ド・グールモンは、1858年4月4日に生まれ、1915年9月27日に没したフランスの詩人、作家、批評家である。象徴主義者に近く、小説家であり、ジャーナリスト、美術批評家でもあった。日本ではグウルモンやグルモンとも表記される。
ノルマンディーでも古くからの伯爵家に、父オーギュスト=マリーと母マティルド・ド・モンフォールの子として、オルヌ県バゾッシュ=オ=ウルムの母方の祖父の家で生まれた。コタンタン地方に起源を持つ家柄で、一族の一支族はパリに出て版画などを出版する会社を創った。1866年に家族は隣のマンシュ県の館に移り、クタンスのリセの寄宿生となって、想像力が過ぎるといわれながらも優秀な生徒だった。1876年にカーンに移って法律を学び、1879年に法学士の資格を得たが、生活に困らなかったこともあり、文学と女性との交際に明け暮れたという。パリに出て、1883年に国立図書館に職を得た。最初はカトリック系の定期刊行物に寄稿し、歴史の啓蒙書も著したが、1886年の小説『メルレット』で本格的に文学界に出た。作品は無関心に迎えられた。同年、グスタフ・カーンの雑誌『ラ・ヴォーグ』を通じて、同時代の新しい美学の探求を知った。
1889年秋に、アルフレッド・ヴァレットやジュール・ルナールらとともに、新しい『メルキュール・ド・フランス』の創刊に関わり、以後25年間にわたって同誌に寄稿した。彼の最初の寄稿は、自然主義と、ブールジェの心理学派に反対した精緻な散文で、その協力は同誌の個性を深く刻み、その名と同誌は切り離せない。象徴主義を、哲学的観念論の主観的な教義と結びつけて定義した。1880年代にマラルメの詩を知り、象徴主義運動の最も傑出した批評家となった。1886年の末にベルト・ド・クーリエールと知り合い、のちに愛人となって、彼女に宛てて1887年に書いた情熱的な手紙は、死後に『シクスチーヌへの手紙』として出版された。小説『シクスチーヌ』(1890年)は彼女に着想を得たもので、リラダンに献じられた。ジュール・ルナールは、これを「全編カント的思想に貫かれている本」と評している。ユイスマンスとも交際し、マラルメの火曜会にも通った。
1891年に、愛国主義を批判する詩的な論説「玩具の愛国心」を同誌に発表し、独仏の文化的な親近が民族主義の情熱によって妨げられていると主張した。その軽蔑的な口調が醜聞となり、国立図書館を解雇され、大手の新聞の多くが門戸を閉ざした。オクターヴ・ミルボーの弁護で、日刊紙に毎日の短評を載せることはできた。以後は隠遁生活を送り、自宅を国立図書館に匹敵する豊かな書庫にしようと、日課としてセーヌ河岸の古本屋を回り、書斎ばかりか廊下や客間にまで、天井に達するほどの本の山を築いた。一時は雑誌『挿絵師』をアルフレッド・ジャリとともに、のちに独りで主宰し、忘れられた作家や、中傷されていた作家を取り上げて、いわば新しいフランス文学史を試みた。評論ではマラルメやヴェルレーヌ、ユイスマンス、ランボー、コルビエール、ボードレール、ネルヴァルらの価値を示した。1915年、パリ6区の自宅で、57歳の生涯を閉じた。
同じ年に亡くなった人物
- 井上馨 (1915年没)
- チャールズ・エドウイン・ベッシー (1915年没)
- ヴァジャ・プシャヴェラ (1915年没)
- エレン・グールド・ホワイト (1915年没)
- リチャード・ライデッカー (1915年没)
同じ地域に関係する人物
- アンジェリカ・カタラーニ (1849年没)
- アダム・フランス・ファン・デル・ミューレン (1690年没)
- ジャック・ドリル (1813年没)
- ジャン・ドゥーシェ (2019年没)
- ピエール=ジャン・ロビケ (1840年没)