伝記
ブッカー・トリヴァー・ワシントンは、1856年4月5日、バージニア州フランクリン郡のヘイルズ・フォードで、奴隷として生まれたアメリカ合衆国の教育者、作家である。ロアノークから約35マイル南東にあるピードモント地域の小さな共同体で、南北戦争後、奴隷解放宣言が発せられると、母ジェーンとともに奴隷の身分から解放された。ウェストバージニア州で、母とともに塩の荷造り人として働きながら、学校にも通った。16歳のとき、バージニア州を横断してハンプトン・ローズの近くのエリザベス・シティ郡に向かい、ハンプトン師範・農業大学(今のハンプトン大学)に入学するため、臨時の仕事をして旅費を稼いだ。この大学は黒人の教師を養成するために設立された学校で、設立にはウィリアム・ジャクソン・パーマーをはじめとするクエーカー教徒の資金協力があった。
のちにアラバマ州タスキーギに設立された黒人のための職業訓練校の校長に就任した。同校は現在のタスキーギ大学にあたる。この学校で教えるため、ジョージ・ワシントン・カーヴァーを採用している。白人と協力し、裕福な慈善家の支援を得た仕事は、南部の至る所で小さな地域の学校や、黒人のための高等教育機関を設立し運営することを助けた。19世紀後半から20世紀前半にかけて、アメリカの黒人のあいだで人気のあるスポークスマンとして活動し、「調停者」の愛称で呼ばれた。当時の主要な教育者の一人であり、西アフリカのリベリア共和国にある農業訓練学校ブッカー・T・ワシントン研究所は、彼の名にちなんで、1929年にタスキーギの支援で建てられた。
政治活動も活発で、政治的地位への黒人の任命について、国会議員や大統領から定期的に意見を聞かれ、多くの白人の政治家や名士と交際した。独立独行がアメリカの黒人の条件改善の鍵だと考え、黒人は奴隷制からの解放にそれほど期待できなかったと主張した。しかし、黒人に「妥協」して人種隔離を受け入れるよう助言したことは、W・E・B・デュボイスのような他の黒人活動家の反感を買った。彼は、黒人の経済的な地位の向上と教育の機会均等を優先し、摩擦を招きやすい政治的要求は避けるべきだと考えて、ジム・クロウ法を公には非難しなかった。ただ、人種隔離に対する提訴に個人的に資金を寄付したことは注目に値する。ワシントンとデュボイスは敵対していたというイメージに反し、実際は友人としてお互いを尊重し合っていたともいう。一方、近しい人々が「タスキーギ・マシン」と呼ばれる学閥を作り、政治的要求をする黒人を排除したことは、批判されている。
1894年頃から、富豪の財界人ヘンリー・ハットルストン・ロジャーズと友情を深めた。ロジャーズは小さな町の労働者階級の出身で、ロックフェラーのスタンダード・オイル・トラストのパートナーとなり、世界有数の富豪となった人物だが、控えめで寛大だった。友情は15年続いた。ワシントンは、1909年に完成したバージニアン鉄道のルートに沿って、ロジャーズ個人所有の鉄道車両「ディキシー」に乗り、一週間かけて各地で講演を行った。1901年に出版した自叙伝『奴隷から立ち上がりて』はベストセラーとなり、彼は大統領のゲストとしてホワイトハウスに招かれた最初のアフリカ系アメリカ人となった。このことは、セオドア・ルーズベルト大統領のスキャンダルに結びついた。1915年11月15日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ユリウス・フォン・パイアー (1915年没)
- マーガレット・リンジー・ハギンズ (1915年没)
- ジョン・デイヴィス・ロング (1915年没)
- コンスタンチン・マコフスキー (1915年没)
- エドワード・リー・グリーン (1915年没)
同じ地域に関係する人物
- クレメント・コマー・クレイ (1866年没)
- ジェームズ・レイチェルズ (2003年没)
- ポール・ベアラー (2013年没)
- ジョージ・ワシントン・カーヴァー (1943年没)
- リチャード・イェーツ (作家) (1992年没)