伝記
フライジングのオットーは、1111年または1114年にクロスターノイブルクで生まれ、1158年9月22日に没したドイツの司教で歴史家である。シトー会の修道士でもあった。オーストリア辺境伯レオポルト3世と、皇帝ハインリヒ4世の娘アグネス・フォン・ヴァイプリンゲンのあいだの5男にあたる。アグネスの最初の夫フリードリヒ1世との子には、ドイツ王コンラート3世がおり、その孫が皇帝フリードリヒ1世である。姉のユーディトはモンフェッラート侯グリエルモ5世に嫁いだ。このため、ドイツと北イタリアの有力な家々とつながりがあった。生涯の記録は乏しく、年代にも不確かなところがある。
レオポルト3世がクロスターノイブルクに設立した修道院の基金で、パリへ留学した。パリでは哲学に強い関心を持ち、アリストテレスの哲学をドイツに初めて紹介した1人とされる。オーストリアの新しい修道院の長も務めた。1132年、留学を終えた帰りに立ち寄ったブルゴーニュのモリモン修道院に魅せられて、その場でシトー会に入会し、同行していた15人の貴族も巻き込んで、そこで暮らすことにしてしまった。息子が帰ってこなくなったレオポルト3世は、息子を呼び戻そうとして、またオットーの影響も受けて、ハイリゲンクロイツ修道院を創設した。創設は1133年とも1135年ともいわれ、のちのウィーンとなる地域に、読み書きの力や進んだ農業、ワイン造りをもたらしたとされる。
しかしオットーはすでに1136年ごろ、モリモン修道院の院長に収まっていた。まもなくフライジング司教に選ばれ、郷里に帰ったのは1138年になってからで、そのまま司教の任に就いた。この司教区とバイエルン全体は、当時、ヴェルフ家とホーエンシュタウフェン家の争いで乱れ、教会の状態も嘆かわしかったが、新司教は教会の面でも世俗の面でも大きな改善をもたらした。1143年から1146年にかけて、オットーは著名な書物『二つの国の年代記』を書き上げた。1147年には、悲惨な結果に終わった第2回十字軍に参加した。司教の率いた部隊は大きな損害を受けたが、オットー自身はエルサレムに着き、1148年か1149年にバイエルンへ戻った。のちの皇帝フリードリヒ1世の信任を得て、1156年のバイエルン公領をめぐる争いの解決に力を尽くしたらしく、1157年の有名なブザンソン帝国議会にも出席した。
『二つの国の年代記』は、アウグスティヌスの思想の枠組みに従う全8巻の歴史と哲学の書で、「二つの国」は天の国と地の国を表す。エルサレムとバビロンを対比し、当時の歴史についても貴重な情報を含んでいる。1146年までの出来事を扱い、1209年までは、ブラウボイレン修道院の聖ブラジウスが続けた。この書でオットーは、ジャバラの司教フーゴーと会い、東方にネストリウス派のキリスト教徒の王プレスター・ジョンがいると聞いたことを記した。これは、プレスター・ジョンへの最初の文献上の言及とされる。もうひとつの『フリードリヒ1世伝』は、オットーの存命中には未完で、死後の1160年に宮廷礼拝堂司祭ラーエウィンによって完成した。この書は、シュタウフェン家とフリードリヒ1世について記している。
オットーは、シトー会の修道服を着たまま、1158年9月22日にモリモン修道院で死去した。聖遺物はハイリゲンクロイツ修道院におさめられている。1857年には、バイエルンのフライジングに司教の像が建てられた。
同じ年に亡くなった人物
- ルートヴィヒ1世 (1158年)
- ジョフロワ (ナント伯) (1158年没)
- サンチョ3世 (カスティーリャ王) (1158年没)
- アグネス・フォン・バーベンベルク (1158年(推定))
同じ地域に関係する人物
- シャルル・ド・ゴール (1970年没)
- クロード (ギーズ公) (1550年没)
- アントワネット・ド・ブルボン=ヴァンドーム (1583年没)
- トワノ・アルボ (1595年没)
- アルフレッド・ロアジ (1940年没)