HISTORICAL PERSON · 1159年没

ギヨーム1世 (ブローニュ伯)

イングランド王スティーブンの末子でブローニュ伯。ウォーリングフォード協定で王位継承権を失ったが所領は保持し、後にヘンリー2世からナイト爵位を授けられた。

生涯
1159年没
死亡地
フランス共和国(オート=ガロンヌ県 / トゥールーズ)
出生地
—
出典
世界地図
フランス共和国(オート=ガロンヌ県)

伝記

ギヨーム1世は、ブロワ家の出身で、ブローニュ伯、サリー伯、モルタン伯をつとめたアングロ・ノルマン系の有力貴族である。1135年ごろに、イングランド王スティーブンとブローニュ女伯マティルド・ド・ブローニュの末子として生まれた。誕生した年ははっきりしないが、母マティルドが1135年の父の即位式に出ていないことから、そのころ生まれたと推定されている。

ギヨームは1147年ごろ、サリー伯ウィリアム・ド・ワーレンの娘で相続人のイザベル・ド・ワーレンと結婚したとされる。これにより、ギヨームもサリー伯位を持った。政略結婚で、父スティーブンは、ギヨームに王国の政治で重い役割を果たさせようとした。この結婚によって、ワーレン家が多くの領地を持つイースト・アングリアと南東イングランドへの王の支配が強まった。イースト・アングリアの有力者、初代ノーフォーク伯ヒュー・ビゴッドは、スティーブン王への忠誠をはっきり示していなかったが、ギヨームがこの地方に勢力を伸ばすと、忠誠を誓ったという。ギヨームは、ノーフォーク地方のほぼ全域の支配権を得た。王はペヴェンジーの統治権も与えた。

1153年、兄ウスタシュ4世が亡くなり、ギヨームは兄が持っていたブローニュ伯位とイングランドの領地を継いだ。そのころ父は、18年続いた内戦を終わらせようと、ノルマンディー公アンリ・プランタジュネと交渉していた。1153年にウォーリングフォード協定が結ばれ、内戦は終わったが、ギヨームはイングランド王位の継承権を失い、父はアンリを後継者に任じた。その一方でスティーブンは、唯一の息子であるギヨームが結婚や両親から手にした、サリー伯位やイングランドとノルマンディーの自領の所有を認めさせた。

1154年ごろ、アンリ・プランタジュネに対する反乱が、フランドルで企てられたという。スティーブンに仕えたフランドル人傭兵の指揮官が首謀者とされ、カンタベリーに滞在するアンリを暗殺する計画だった。歴史家ジェルヴァシスは、ギヨームがこれを知り、共謀したはずだと書いたが、中世史家トマス・K・キーフは、足の骨を折ってカンタベリーで休んでいたギヨームは関係がなかったとする。計画は見破られ、アンリはロチェスターに退き、海峡を渡ってノルマンディーに戻った。1154年10月にスティーブンが亡くなると、ギヨームはアイ、ランカスター、ペヴェンジーの統治権と、モルタン伯位を継いだ。これらを得て、600人の騎士を従える大貴族になった。だが、王位への望みは消え、王位継承を支える者はもういなかった。

アンリはヘンリー2世としてイングランド王に即位し、ギヨームの勢力を削る機会をうかがった。1157年、ギヨームがノーフォーク伯と争いを起こすと、ヘンリー王は、ノルマンディーとイングランドの領地を取り上げ、両親から継いだ領地だけを残して、それらの城塞を王家の管理下に置いた。もはや脅威ではなくなったギヨームは、1158年6月24日、カーライルで、ヘンリー2世から直々にナイトに叙された。王位への望みがないことを示すために、1159年のイングランド軍のトゥールーズ遠征にも加わった。帰る途中の1159年10月11日、軍を襲った疫病にかかり、トゥールーズの城門のそばで死んだ。ポワトゥーのモンモリヨンに葬られた。子はなく、ヘンリー2世は領地と爵位をすべて取り上げた。ロムジーの修道院にいた妹マリー・ド・ブローニュは、マチュー・ダルザスにさらわれて、無理に結婚させられた。未亡人は、ジョフロワ5世の庶子ハメリン・ド・ワーレンに嫁ぎ、ハメリンがサリー伯となった。

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