伝記
韓信は、紀元前231年頃に生まれ、紀元前196年に没した、秦末から前漢初期の武将である。劉邦のもとで数々の戦いに勝ち、その覇権を決定づけた。張良・蕭何とともに漢の三傑の一人に数えられる。兵法に通じ、戦略戦術を創造的に運用し、大軍の指揮を得意とした。明代の茅坤は「兵仙」と称え、後世の兵家からも高く評価された。
韓信は淮陰の人で、貧しいうえ品行も悪く、職に就けないまま他人の家に居候する遊侠無頼の暮らしを送った。亭長の家に身を寄せていたが、嫌気がさした亭長とその妻に食事を出されなくなり、数日間食べずにさまよった末、見かねた老女に数十日にわたり食事を恵まれた。韓信が「いつか必ず厚く御礼をする」と言うと、老女は、かわいそうに思っただけで礼など望んでいないと答えたという。また、町の若者に「刺してみろ、できないなら股をくぐれ」と挑発されると、黙って股をくぐり、周囲に大いに笑われた。ここで斬っても得はなく、仇持ちになるだけだと冷静に判断していたとされ、「韓信の股くぐり」として知られる。
紀元前209年、陳勝・呉広の乱を機に大きな動乱が始まると、項梁、次いでその甥の項羽に仕えて郎中となったが、進言は用いられなかった。紀元前206年に秦が滅びると項羽のもとを離れ、漢中に左遷された劉邦に身を寄せたものの、与えられたのは連敖という接待係の役だった。あるとき罪を犯して同僚13名と斬刑に処されかけたが、刑場にいた夏侯嬰に壮士を殺すのかと訴えて助命され、劉邦に推薦された。劉邦は治粟都尉に任じたものの関心を示さなかった。蕭何は韓信と語り合って奇才と認め、何度も推薦したが、劉邦は受け付けなかった。
当時の漢軍では、辺境の漢中を嫌って逃亡する者が相次いでおり、韓信も逃げた。これを知った蕭何は報告もせずに追いかけ、「今度推挙して駄目なら私も漢を捨てる」とまで言って連れ戻した。蕭何まで逃げたと誤解していた劉邦が問いただすと、蕭何は、韓信は国士無双であり、漢中に留まるなら不要だが天下を争うなら不可欠だと答えた。劉邦は韓信を全軍を指揮する上将軍に任じた。紀元前206年4月のことである。韓信は、兵士が故郷に帰りたがっていることや三秦の王に人心が離れていることを挙げ、関中の攻略は容易だと説いた。劉邦は喜んだ。
この年の8月に関中へ出兵した韓信は、章邯を水攻めで破って自害に追い込み、司馬欣と董翳も撃破した。紀元前205年、劉邦が彭城を落としながら項羽の奇襲で大敗すると、韓信は敗れた漢兵をまとめて滎陽で劉邦と合流し、追撃してきた楚軍の西進を食い止めた。その後は別働軍を率いて諸国の平定に向かった。魏では、対岸に囮の船を並べて敵を引きつけ、上流から木桶の筏で兵を渡らせて首都の安邑を攻め、魏豹を捕らえた。代を占領して趙へ進むと、河を背にした背水の陣を敷き、20万と号した趙軍を破って、陳余と趙王歇を討った。捕らえた李左車の策に従い、燕の臧荼を戦わずに降した。紀元前203年、斉に攻め込んだ韓信は、蒯通の進言で進軍を続け、斉の城を次々と破った。救援に来た楚の龍且の20万の軍勢は、上流をせき止めた濰水の水を切って流され、龍且は討ち取られた。斉を平定した韓信が仮の王になりたいと願い出ると、劉邦は怒ったが、張良と陳平に諭されて斉王と認めた。項羽の使者武渉や蒯通から漢に背くよう勧められても、劉邦の恩義を理由に退けた。やがて垓下で項羽が追い詰められ、楚漢戦争は終わった。紀元前202年、韓信は楚王に移され、故郷の淮陰では、老女に大金を与え、股をくぐらせた若者を中尉に取り立て、亭長にはわずかな銭を与えて戒めた。