伝記
マグヌス・ヘンリクソンは、マグヌス2世として1160年から1161年にかけてスウェーデンを治めた王であり、デンマークの貴族でもあった。王位簒奪者として知られる。母はスウェーデン王インゲ1世の孫娘イングリッド・ラグンヴァルツドッテル、父はデンマークの貴族ヘンリク・スカテルールで、デンマーク王スヴェン2世の庶子スヴェンの息子であった。ヘンリクの死後、イングリッドは3度再婚した。相手は順に、ノルウェー王ハーラル4世、オッタル・ビルティング、そしてスターヘイムのアルネである。このためマグヌスは、北欧3王国の王家と縁でつながっていた。彼は、ハーラル4世の娘ブリギットと結婚している。彼の名が最初に現れるのは1148年で、デンマーク王スヴェン3世の発した文書の証人としてである。
当時のスウェーデンでは王位が激しく争われており、マグヌスは王位請求者のひとりだった。サクソ・グラマティクスによれば、1156年に彼は、スヴェルケル老王の腹心の召使いに金を与えて、王を暗殺させた。その数年後には、伝説によれば、国内のある首長と手を結んだが、それはスヴェルケルの息子カールだった可能性もある。そして1160年5月18日、エリク・イェドヴァルソン(のちの聖王エリク9世)が、ウップサーラ近郊のウストラ・アロスの教会から出てきたところを待ち伏せして殺した。
これによってマグヌスは、スウェーデンの大半の王となったが、1158年ごろからカール・スヴェルケルソンが治めていたエステルイェートランドは、その支配に入らなかったらしい。ただし、ヴェストイェータ法の王の一覧には名が見えるので、ヴェストイェートランドでは王と認められていたと考えられる。マグヌスは弟のラグンヴァルドをヤールに任じ、ノルウェー王インゲ1世がノルウェーで殺されたときには、母を同じくする弟オルムをかくまった。そのほかの治世のことはあまり知られておらず、弟ラグンヴァルドとともにヴレータ修道院に土地を寄進したことが分かっている。
マグヌスの治世は1年ほどで終わった。15世紀の歴史家エリクス・オラウィによれば、ウストラ・アロスの襲撃を生き延びたエリクの支持者たちが北のヘルシングランドへ逃れ、簒奪者の王への反対を広めた。王殺しへの不満がスウェーデンの農民のあいだに広がり、やがてマグヌスに対する蜂起につながったという。一方、ほぼ同時代のサクソ・グラマティクスは、マグヌスが、スヴェルケルの息子カールの王冠をも奪おうとして、カールとの戦いで倒れたと書いている。サクソは、マグヌスの暴力的な死を、スヴェルケルの恥ずべき暗殺に対する神の報復とみなした。この戦いは、1161年にエーレブルーで行われたと伝えられる。
マグヌスの没落後は、カール・スヴェルケルソンがスウェーデン王となり、カール7世としてスヴェルケル朝を復興させた。マグヌスの同父母の弟クヌートとブリスはデンマーク王ヴァルデマー1世の宮廷でヤールを務め、母を同じくする弟ニコラス・アルネソンはオスロの司教となった。王妃ブリギットは、のちに有力なヤールのビルイェル・ブローサと再婚し、ビェルボ家の一つの系統の祖先となって、国王ヨハン・スヴェルケルソンの祖母となった。
同じ年に亡くなった人物
- メリザンド (エルサレム女王) (1161年)
- 欽宗 (1161年)
- ニザーミー・アルーズィー (1161年)
- クトラ・カン (1161年)
- イングリッド・ラグンヴァルツドッテル (1161年)
同じ地域に関係する人物
- オーレ・オーフルンド (1996年没)
- テオドール・スヴェドベリ (1971年没)
- エルザ・アンデルソン (1922年没)
- オルヴァー・ベリマルク (2004年没)
- ラウラ・ヴァルボリ・アウリン (1928年没)