HISTORICAL PERSON · 1163年没

アブドゥルムウミン

ザナータ族出身のベルベル人で、ムワッヒド朝の初代アミール。イブン・トゥーマルトの弟子から総司令官となり、1147年にマラケシュを攻略、1148年にモロッコ全土を制圧し、マグリブを政治的に統一した。

生涯
1163年没
死亡地
モロッコ王国(サレ)
出生地
アルジェリア(トレムセン県 / Nedroma)
出典
世界地図
モロッコ王国(トレムセン県)

伝記

アブドゥルムウミンは、ムワッヒド朝を建てた初代の君主(アミール、カリフ)で、ベルベル人のザナータ族の出身である。1094年ごろ、トレムセンと地中海岸のあいだにあるネドロマで、陶工の家に生まれた。若いころ、トレムセンでイスラームの学問を修めた。1117年ごろ、ベジャイアに遊学し、近郊のマッラーラで、ムワッヒド運動の指導者イブン・トゥーマルトと会い、その弟子となった。この出会いは、神秘的な伝説によって飾られている。

トゥーマルトらは、ムラービト朝の贅沢な空気を攻撃し、首都マラケシュを離れてアトラス山脈へ移った。アブドゥルムウミンも付き従った。1122年にキクの戦いでムラービト軍に勝ったが、圧力は強まった。彼は「10人」とも呼ばれる顧問会議の一員となり、軍の指揮を任された。1125年にトゥーマルトが軍を編成すると、総司令官に選ばれ、平原へ出てマラケシュを包囲したが、アル・ブハイラの戦いで敗れ、後継者と目されたアル・バシールが戦死した。彼も負傷し、敗残兵を率いてティンメルへ退いた。1130年8月(1128年とも)、トゥーマルトが没すると、その指名で指導者となったが、この死は3年間伏せられた。1133年、「信徒の司令官」の称号を使い、アッバース朝のカリフから独立を宣言した。

1143年にターシュフィーン・イブン・アリーがムラービト朝の君主となり、1145年のトレムセンの戦いで敗死した。ムワッヒド軍はフェズ、メクネス、サレを次々と攻略し、1146年5月からマラケシュを包囲して、1147年3月に攻め落とした。ムラービト朝の王族と貴族は殺された。その後、蜂起したベルベル人を討ち、ムワッヒド派内の粛清を行って、数千人の信者が殺されたといわれる。トゥーマルトの兄弟イーサーとアブドゥルアジーズが反乱を企てると、300人の共謀者が摘発された。1148年にモロッコ全土を制圧し、同じ年にイベリアでは、バレンシア総督からハエンとコルドバを譲られた。

1152年、中央マグリブへ遠征してアルジェとベジャイアを占領し、息子のアブドゥッラーにハンマード朝の旧都を攻めさせ、コンスタンティーヌを制圧した。1153年にセティーフ平原の戦いでアラブ遊牧民に勝ち、寛大さを示して自軍に加えた。ムワッヒド軍は、1153年にマラガ、1154年にグラナダ、1157年にアルメリアを攻略した。1156年(1157年とも)、サレで長子ムハンマドを後継者に指名し、ほかの息子を各地の総督にした。有力者たちにも地位の世襲を認めさせたが、これに対し、モロッコ南東部で反乱が起きた。1159年にはチュニジアへ向けてサレを出発し、6か月後にチュニスを占領して、マフディーヤを解放し、スファックスとトリポリも得て、エジプトを除く北アフリカを支配した。

イベリアでは、ムルシアのイブン・マルダニーシュがムワッヒド朝に敵対し、カスティーリャなどと結んでいた。援助を求められたアブドゥルムウミンは騎兵を送り、カスティーリャ軍とマルダニーシュを破った。サレで再遠征の準備を進めたが、1163年(5月とも12月ともされる)に遠征の開始前に病で没した。遺体は、ティンメルのトゥーマルトの墓の近くに葬られた。碧眼の持ち主で、トゥーマルトから、足は埃にまみれていても頭は常に昴の中にある人物と評された。多くのマドラサを建てたことでも知られる。カリフの称号の世襲を約束させ、承認と引き換えに有力者に高い地位を与えたことが、のちの王朝の没落の一因になったといわれる。

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