伝記
フランツ・ヨーゼフ1世は、1830年8月18日、オーストリア皇帝フランツ1世の三男フランツ・カール大公と、バイエルン王女のゾフィー大公妃の長男として生まれた。オーストリア皇帝(在位1848年から1916年)で、ハンガリー国王などを兼ねた。ゾフィーがなかなか懐妊せず、侍医の勧めでバート・イシュルの塩泉で治療したところ男子が生まれたため、「塩の王子」と呼ばれた。当時の皇太子フェルディナントは病弱で、子孫を儲けることは不可能と考えられ、父フランツ・カールは即位しない意志を表明していたため、生まれたばかりの男子は、皇帝となることを予期して育てられた。祖父フランツ1世は初の内孫を溺愛した。
母ゾフィーは、長男に大きな期待をかけて厳しくしつけ、弟マクシミリアン(のちのメキシコ皇帝)を甘やかした。1835年に祖父が死去し、伯父フェルディナントが即位した。フランツは六歳で傅母の手から引き離され、週十三時間、七歳では三十二時間の授業を受けた。多くの言語や歴史、馬術、軍事訓練などが加わり、十二歳の時には週五十時間に及んだ。十三歳の時には勉強しすぎで病気になった。苦手な科目は数学と正書法で、好きな科目は歴史と地理だった。
1848年に三月革命が起こり、ウィーンではメッテルニヒの罷免を求める声が高まって、三月十四日に彼は職を辞して逃亡した。情勢は混迷し、母ゾフィーは、ハプスブルク家の次代を担うフランツを、イタリア戦線のラデツキー将軍のもとに託して、軍隊での経験を積ませた。フランツは4月29日に将軍のもとに着き、避難を勧められても拒んだ。5月に宮廷はインスブルックへ避難し、フランツもそこへ呼ばれて、将来の花嫁となる従妹エリーザベトと対面したが、このときは何の感情も抱かなかった。宮廷は10月にオルミュッツへ移った。会議で、フェルディナント1世は国家の安泰を維持できず、弟フランツ・カールも適任ではないとして、伯父の退位が決まった。1848年12月2日、オルミュッツの大司教館で伯父から譲位を受けた。傍系の大公は二十歳で成人だったが、フランツは特例で十八歳で成人と認められた。
「フランツ2世」ではなく複合名の「フランツ・ヨーゼフ1世」を名乗ったのは、改革者ヨーゼフ2世を想起させて革命勢力をなだめる意図もあったとされる。しかし本人は、君主は神によって統治権を委ねられたとする王権神授説を固く信じ、自由主義と国民主義の動きを抑圧した。ただちに戒厳令を布いて、新絶対主義と呼ばれる絶対主義的な統治の維持を図った。首相シュヴァルツェンベルクに補佐され、北イタリアとハンガリーの独立運動を抑圧した。
イタリア統一戦争に敗れて、ロンバルディアを1859年に、ヴェネトを1866年に失った。1866年の普墺戦争ではケーニヒグレーツの戦いで大敗し、不利な講和を結んだ。1867年にハンガリーとのアウスグライヒを実現させ、オーストリア=ハンガリー二重君主国が成立した。民族問題は先鋭化し、1908年にボスニアとヘルツェゴヴィナを併合したことで、セルビアとの関係が悪化した。1882年にはドイツ、イタリアと三国同盟を結んだ。1914年のサラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が暗殺されると、セルビアに宣戦し、第一次世界大戦が勃発した。1916年11月21日、肺炎のためウィーンで八十六歳で崩御した。皇后は美貌で知られるエリーザベトである。六十八年に及ぶ在位から「国父」とも称された。
同じ年に亡くなった人物
- フリードリヒ・ゲルンスハイム (1916年没)
- ヴィルヘルム・ハンマースホイ (1916年没)
- エドゥアルト・シュトラウス1世 (1916年没)
- カール・クリントヴォルト (1916年没)
- ヒューゴー・ミュンスターバーグ (1916年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴァルター・ベリー (2000年没)
- エルヴィン・シュレーディンガー (1961年没)
- カール・フォン・ブラース (1894年没)
- レオポルト・ホフマン (1793年没)
- Ceija Stojka (2013年没)