伝記
ロスチスラフ1世は、スモレンスク公からキエフ大公となったリューリク家の公で、ロスチスラフ・ムスチスラヴィチともいう。1107年から1110年のあいだに、おそらくキエフで生まれた。キエフ大公ムスチスラフ1世と、スウェーデン王女クリスティーナの子で、キエフ大公イジャスラフ2世の弟にあたる。教会への援助と、争いを平和に解決しようとする姿勢から、「敬虔公」と呼ばれた。
1125年か1127年にスモレンスク公となり、父には常に従順だった。治世にスモレンスク公国は栄え、ドニエプル川の向こうや、ヴォルガ川の上流域にまで広がり、周囲の公国から独立した力を持つようになった。ロスチスラフはスモレンスクの司教区の名声を高め、宗教書などの写本も多く集めたという。1140年にはキエフ大公フセヴォロド2世の攻撃を受けたが、スモレンスクを守りきった。1147年には、ますます強くなるロスチスラフの力を前に、リャザン公国が自ら服属を受け入れた。キエフ大公位をめぐる諸公の争いには、はじめ加わらず、兄イジャスラフ2世を、ユーリー・ドルゴルーキーとの争いで支え続けた。
1154年4月17日、ヤロスラフ2世がノヴゴロドから追われると、ロスチスラフはノヴゴロド公に招かれて受け入れた。しかしイジャスラフ2世が死んだと知ると、キエフの座を取るためノヴゴロドを去った。ノヴゴロドの人々は、公が自分たちを見捨てたことに怒り、総督だったロスチスラフの息子ダヴィドを追い出し、ユーリー・ドルゴルーキーの子ムスチスラフを迎えた。ロスチスラフは叔父ヴャチェスラフとともにキエフを治めたが、わずか1週間ほどで、イジャスラフ3世に追われて退いた。1155年の終わりには、ユーリー・ドルゴルーキーがイジャスラフ3世を追って、キエフの座に就いた。1157年にユーリーが死に、イジャスラフ3世が大公位を継いだが、ムスチスラフ2世が1158年にこれを破り、翌1159年、叔父ロスチスラフ1世をキエフ大公に招いた。
1161年にイジャスラフ3世がキエフを再び征服すると、ロスチスラフはベルゴロドにこもった。1162年、イジャスラフは攻め落とそうとして失敗し、ロスチスラフは反撃に転じた。敗走するイジャスラフの軍を追い、イジャスラフ3世は家臣とともに戦死した。1167年、ノヴゴロドが息子スヴャトスラフを追放したため、調停に向かったが、途中で和解が成立して帰った。スモレンスクに立ち寄ったとき、すでに重い病にかかっており、キエフを目前にして死んだ。ザルーバで亡くなり、10日後にキエフの聖フョードル修道院に葬られた。
ロスチスラフはスモレンスクのロスチスラヴィチ家の祖で、息子にロマン、スヴャトスラフ、リューリク、ダヴィド、ムスチスラフがいる。娘エレナはポーランド王カジミェシュ2世の妃となり、アガフィヤはノヴゴロド・セヴェルスキー公オレグの妻、アグラフェナはリャザン公イーゴリの妻となった。
同じ年に亡くなった人物
- エイルレッド・オブ・リーヴォール (1167年(推定))
- ハインリヒ2世 (リンブルフ公) (1167年没)
- マティルダ (神聖ローマ皇后) (1167年没)
- ライナルト・フォン・ダッセル (1167年)
- カール7世 (スウェーデン王) (1167年没)
同じ地域に関係する人物
- アントニナ・マカロワ (1979年没)
- アレクセイ・コンスタンチノヴィッチ・トルストイ (1875年没)