伝記
プルシアス1世(ビテュニア王プルシアス1世)は、紀元前243年ごろに生まれ、紀元前182年に没したとされるビテュニアの王である。治世は紀元前228年ごろから紀元前182年までとされ、フランス語圏では紀元前230年からともいう。父は先王ジアエラス、母は名の伝わらない女性である。ジアエラスは紀元前243年ごろから230年ごろまで王位にあったとされる。「跛行王」すなわち足の不自由な王という添え名で知られ、この名は攻城中の負傷に由来するとされる。
精力的な指導者として、紀元前220年にはビザンティオンと戦った。ビザンティオンはガラティア人への貢納に苦しみ、黒海の入口を通る船から通行料を取っていたため、ロドスがこれに反発して開戦した。プルシアスはロドスと結び、陸上の攻撃を受け持ち、ロドスが海上を担当した。プルシアスはヒエロンやビザンティオンのアジア側の領土を奪った。ビザンティオンがペルガモンなどに救援を求めたこと、トラキアのガラティア人の王カウアロスが調停に動いたことで講和が成立する。条約でビザンティオンは通行料の徴収をやめ、プルシアスは奪ったものを返還することになった。またプルシアスは、先王ニコメデス1世が招き入れたガラティア人を破り、その女子供を殺して荷を兵に略奪させたと伝えられる。
婚姻ではマケドニア王デメトリオス2世の娘アパマを妃に迎えた。この縁でマケドニア王ピリッポス5世の義弟となり、紀元前202年にはキオスとミュルレイアの二都市を与えられた。プルシアスは前者を自分の名にちなんでプルシアス(現在のトルコのブルサ)、後者をアパメイアと改名した。そのほか、ペルガモン王アッタロス1世や黒海沿岸のヘラクレイア・ポンティカとの戦いでも領土を広げ、ヘラクレイアから奪った都市の一つキエロスもプルシアスと改名した。晩年にはティエイオンなどヘラクレイアの属領を奪い、さらにその都市を包囲した。包囲中、梯子を登っている時に石に打たれて脚を折り、陥落間近の都市から包囲を解いたという。これが「跛行王」の名の由来と考えられている。
外交では、ローマとセレウコス朝の戦争に際してアンティオコス3世との同盟を断り、中立を保った。一方、ポエニ戦争の名将ハンニバルを庇護し、ハンニバルは海戦で奇策を用いてペルガモン軍を破ったとされる。紀元前188年のアパメイア和約でペルガモンが大きく拡大したことに憤慨し、これと争った。紀元前183年にはキュジコスでペルガモン王エウメネス2世と思われる相手と和平の条件に合意した。フランス語圏の記述では、王国を守るためにハンニバルを引き渡さざるをえなくなり、ハンニバルは自殺を選んだとされる。
内政では、ギリシアの伝統にならい、王の肖像を貨幣の中心に据えた。肖像は若々しく理想化されて描かれ、四ドラクマ貨は兵士への支払いや商取引に広く使われた。またオリュンポス山麓のプルサ、ヒュピオスのプルシアス、ビテュニオンなど各地に都市を築いた。プルサの建設は紀元前186年から183年ごろ、後二者は紀元前180年代末で、新たに得た東方の領土を固め、ヘラクレイアの報復に備える狙いがあったと研究者は説明する。ペルガモンと争って自らをこの地方のヘレニズムの擁護者として位置づけ、王国を最盛期に導いたともいわれる。紀元前182年ごろに没し、同名の子が王位を継いだ。母は妃アパマである。
同じ年に亡くなった人物
該当人物はまだありません。
同じ地域に関係する人物
- シェザーデ・アフメト (1513年没)
- マヒデヴラン・スルタン (1581年没)
- ロベール1世 (ノルマンディー公) (1035年没)
- コンスタンティノス・ラスカリス (1210年代没)
- Tacunnisa Hatice Halime Sultan Hatun (1500年没)