伝記
ウィリアム・フレデリック・コーディは、通称バッファロー・ビルとして知られる、アメリカ西部開拓時代の斥候、興行師である。1846年2月26日、アイオワ州ルクレアの近くの農場に生まれた。父アイザック・コーディは1811年にカナダのトロント・タウンシップで生まれ、母メアリー・アン・ボンセル・レイコックはニュージャージー州トレントンの出身で、シンシナティに出て学校の教師をしていたときに父と知り合って結婚した。1847年に夫妻はオンタリオに移り、息子はウィリアム・コーディとして洗礼を受けた。数年後の1853年に、父は土地を売って、一家はカンザス準州のフォート・レヴンワースに移った。当時のカンザスは、奴隷制をめぐる政治的、物理的な争いで荒れていた。奴隷制に反対だった父は、奴隷制賛成派が集まる交易所で演説をしたところ、群衆の怒りを買い、ボウイナイフで二度刺された。治療を受けたが、完全には回復しなかった。一家は奴隷制賛成派にたびたび迫害され、父は安全のために家を離れることも多かった。敵が父の帰宅を待ち伏せして殺そうとしていると知ると、若いビルは病気だったのに、48キロを馬で走って父に危険を知らせた。
ビルは、父の死後の11歳から働きはじめ、まだ15歳だった1861年にポニー・エクスプレスの騎手に雇われたと伝わる。幼い頃から馬や銃の扱いに長けていた。ほかにコロラド州で金鉱の開発などにも携わった。南北戦争では、1863年から終戦の1865年まで北軍に仕えた。のちに民間人の斥候として陸軍に仕え、シェリダン将軍のインディアン討伐にも協力した。1866年にルイザ・フリードリヒと結婚し、同年に娘アルタが生まれた。1867年にはバッファロー・ハンターとして鉄道建設の労働者に食糧を供給した。「バッファロー」の渾名は、ここに由来するとも、バッファロー狩りの競技会で二位を大きく引き離して勝ったためとも言われる。1869年には、ダイム・ノベルの作家が彼の半生を小説にしたことで、名が広く知られるようになった。1872年には名誉勲章を受けたが、1917年に取り消された911人の一人となり、1989年に議会が彼を含む5人の民間人斥候の勲章を復活させた。
1880年ごろから、拳銃さばきや駅馬車襲撃などを実演してショーにした。1883年にバッファロー・ビルのワイルド・ウェスト・ショーを立ち上げ、アメリカ国内を巡業し、1887年からはヨーロッパも巡った。往年のガンマンや無法者、スー族のシッティング・ブル本人らが参加して人気を集め、興行は大成功した。1882年7月4日にはネブラスカ州で「オールド・グローリー・ブロー・アウト」を開催した。1886年にはノースプラットにスカウトレスト牧場を築き、翌年にネブラスカ州国家警備隊の大佐に任命された。1894年には、女性参政権について見解を述べた。1896年からはワイオミング州で投資家を集めて町造りに没頭し、現在のコーディ市となった。1899年にコーディ市の新聞会社を設立し、1900年にはビッグホーン盆地の土地を灌漑のために巨額を費やして開発した。1905年から取り掛かったダムは1910年に完成した。1902年に妻ルイザが死去し、同年に鉱山会社を設立してアリゾナ州の鉱山に多額の投資をした。
1917年1月10日に死去し、遺体は、西部を愛した彼の遺言に従って、ロッキー山脈の麓、デンバー西郊のゴールデンに埋葬された。現在、デンバーには彼を記念した「バッファロー・ビル・ミュージアム」がある。
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