伝記
フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダンは、1840年11月12日に生まれ、1917年11月17日に没したフランスの彫刻家である。19世紀を代表する彫刻家とされ、「近代彫刻の父」と称される。代表作に『地獄の門』と、その一部を抜き出した『考える人』などがある。
パリの労働者階級の子として生まれた。父は警察に雇われた事務員で、オーギュストは2人目の子であった。エコール・デ・ボザールなどの専門教育を受けず、青年期以降はほとんど独学で彫刻を習得した。10歳のとき初めて絵を描いて美術に興味を持ち、14歳で工芸学校に入った。教員のルコック・ボードランは、彼を最初に評価した人物で、後年ロダンは感謝の言葉を残している。17歳で工芸学校を退くと、学業継続を望んでボザールに入学を志願したが、塑像を提出しても評価は不合格で、翌年も翌々年も全く相手にされなかった。入学を諦め、室内装飾の職人として働きながら、次の道を模索した。
1863年、彼の経済的な支えだった姉マリアが、失恋で精神を病んで修道女となり、修道院で病没すると、姉の恋人を最初に紹介した自分への罪悪感に苦しんだという。姉の後を追うように修道院に入り、修道士見習いとなったが、司教は彼を修道士に不向きだと判断して、美術の道を続けるよう諭した。のちに動物彫刻の大家アントワーヌ=ルイ・バリーに弟子入りして、深い影響を受けた。24歳のころ、生涯の妻となる裁縫職人のローズと知り合い、長男をもうけた。普仏戦争が勃発しても、近視のため兵役を免れたが、仕事が減って生活が苦しくなり、30歳まで家族を養うだけの稼ぎを持てなかった。家族とベルギーへ移住し、ブリュッセル証券取引所の建設作業に参加して、6年間滞在した。展覧会用の作品を作る余裕がなく、誰も彼が彫刻家としての夢を抱いていたことを知らなかった。1875年に念願のイタリア旅行へ出かけ、ドナテッロとミケランジェロの彫刻に衝撃を受け、多大な影響を受けた。「アカデミズムの呪縛は、ミケランジェロの作品を見た時に消え失せた」と語っている。
その情熱を糧に『青銅時代』を製作し、十数年ぶりに彫刻家として活動を開始した。極めて緻密でリアルな等身大の男性像で、あまりのリアルさに「実際の人間から型を取ったのではないか」と疑われ、憤慨したロダンは、人間よりも大きなサイズの彫刻を新たに作った。型を取ったのではなかったと分かった審査員たちは、賞賛の言葉を送り、名は一気にフランス中に広まった。1880年に、国立美術館のモニュメントの依頼を受け、ダンテの『神曲』地獄篇に登場する『地獄の門』をテーマに選んだ。この悩める時期に、教え子のカミーユ・クローデルと出会って夢中になったが、優柔不断な彼は、カミーユと妻ローズの間で揺れた。ロダンはローズのもとへ逃げ帰り、ショックを受けたカミーユは、徐々に精神のバランスを欠いていった。1888年に美術館の建設計画が白紙に戻り、制作中止命令が届いたが、彼は金を払って『地獄の門』を自らの物とし、制作を続けた。1889年、『地獄の門』を覗き込む男を一つの彫刻として発表した。『考える人』という名は、この像を鋳造した人が付けたものである。
1917年、死期の迫ったローズと結婚の手続きをし、その16日後にローズが死去した。さらに9か月後の11月17日にロダンも死去した。末期の言葉は「パリに残した、若い方の妻に逢いたい」であった。『地獄の門』は未完に終わった。
同じ年に亡くなった人物
- テレサ・カレーニョ (1917年没)
- ペッター・アドルフ・カーステン (1917年没)
- ウィリアム・ヘンリー・ムーディ (1917年没)
- オットー・フィンシュ (1917年没)
- エドワード・トーマス (詩人) (1917年没)
同じ地域に関係する人物
- アンリ=ポール・モット (1922年没)
- ルドルフ・ヌレエフ (1993年没)
- ロッテ・アイスナー (1983年没)
- ジョルジュ・ポリツェル (1942年没)
- エドゥアール・シャヴァンヌ (1918年没)