HISTORICAL PERSON · 1918年没

アナスタシア・ニコラエヴナ

最後のロシア皇帝ニコライ2世の第四皇女。1917年の二月革命後に家族と監禁され、翌1918年7月に17歳で銃殺された。生存説が広まったが、後の遺骨発掘で全員の死亡が判明した。2000年に列聖。

生涯
1918年没
死亡地
ロシア連邦(スヴェルドロフスク州 / イパチェフ館)
出生地
ロシア連邦(ペテルゴフ)
出典
世界地図
ロシア連邦(スヴェルドロフスク州)

伝記

アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァは、1901年6月18日に生まれ、1918年7月17日に没した、最後のロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第四皇女である。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁され、翌1918年7月17日、エカテリンブルクのイパチェフ館で、ユロフスキーが指揮する銃殺隊により、家族や従者とともに17歳で銃殺された。2000年にロシア正教会によって新致命者として列聖された。

皇帝一家の埋葬場所が長年知られていなかったことから、殺害後に彼女の生存の伝説が有名となった。1991年にエカテリンブルク近郊で、両親と3人の大公女の遺骨が発掘され、2007年には弟アレクセイと、姉マリアもしくはアナスタシアのどちらか1人の遺骨も発見されて、皇帝一家が全員殺害されたことが判明した。数多く現れた偽アナスタシアの中で最も知られるアンナ・アンダーソンは、没後のDNA鑑定で、アナスタシアの母方の叔母の孫にあたるエディンバラ公フィリップとの遺伝的な繋がりが認められなかった。

ロマノフ家の親戚は、パーヴェル1世が定めた帝位継承法のために、ツェサレーヴィチとなる息子の誕生を望んでいた。第四皇女の誕生を聞いたニコライ2世の母マリア皇太后は「アリックスがまたもや女の子を出産した!」と述べ、妹のクセニアは「何という失望!4人目も女の子とは!」と述べた。ニコライ2世も失望を隠し切れず、落ち着かせるために、新生児に会う前に長い散歩に出掛けた。アナスタシアという名前のロシア語の意味の一つは「鎖の破壊者」で、皇帝は誕生を記念し、前年の冬の暴動に参加して投獄されていた学生たちに恩赦を行った。名前のもう一つの意味は「復活」であり、彼女の死後に生存の噂が広く伝えられることになった。

4姉妹はいつも仲がよく、末娘のアナスタシアは、一番年の近い姉のマリアと特に仲が良く、1つの寝室を共用していた。上の姉オリガとタチアナが「大きなペア」と呼ばれたのに対し、下の2人は「小さなペア」と呼ばれた。4人は四人の頭文字を合わせた合同のサイン「オトマ」を結束の象徴として使った。弟のアレクセイとも、話さずとも気持ちを理解できるほど仲がよく、ふざけた態度で接して弟を楽しませていた。祖父アレクサンドル3世の代からの質素な生活スタイルの影響で、病気の時以外は枕無しの固い簡易ベッドで眠り、朝に冷水浴をした。1905年からニコライ2世は妻子をツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿に住まわせ、5人の子供は外界とほとんど途絶して、母に溺愛されて育った。

多くの証人は、アナスタシアが「お転婆娘だった」と語り、家族からは「反抗児」「道化者」と呼ばれていた。遊び友達だったグレブ・ボトキンは、彼女は少し赤みがかった金髪で、背は低く、父親譲りの明るい青い瞳をしていたと記憶している。フランス語の家庭教師は、とにかくやんちゃでひょうきんで、強烈なユーモアの持ち主だったと語り、物真似も上手く、喜劇の才能があったという。よく木登りをし、父に叱られるまで降りようとしなかった。趣味は両親譲りの写真撮影で、いつも箱型カメラを離さず、1914年10月28日には鏡に映る自分を撮影し、「おそらく自撮りを初めて行ったティーンエイジャー」と推測された。

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