HISTORICAL PERSON · 1918年没

アブデュルハミト2世

オスマン帝国の第34代皇帝で、1876年から1909年まで在位した。兄ムラト5世の後を継いで即位し、弟に第35代メフメト5世と第36代メフメト6世がいる。

生涯
1918年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / ベイレルベイ宮殿)
出生地
トルコ共和国(イスタンブール)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

アブデュルハミト2世は、1842年9月21日に生まれ、1918年2月10日に没したオスマン帝国の第34代皇帝(在位1876年〜1909年)である。第31代皇帝アブデュルメジト1世の子で、第33代皇帝ムラト5世の弟にあたり、メフメト5世とメフメト6世の兄でもある。

トプカプ宮殿で、父アブデュルメジト1世と妻チリミュイジャン・カドゥンの間に生まれた。母はチェルケス人で、11歳で母を失い、義母ペレストゥ・カドゥンに、異母妹とともに育てられた。父は彼に冷淡で、継承順位の低さから接する者も少なく、周囲から孤立していたという。こうした生い立ちが彼を冷徹な性格にしたという説もある。2歳年上の兄ムラトと同時に教育を受け始めた。即位前の彼は金銭管理を厳格にして、自分の支出と収入をしっかり把握し、時には兄や弟に金を貸した。叔父のアブデュルアズィズは彼に好意的で、エジプトやヨーロッパの旅行に随伴させた。兄ムラトが叔父に軟禁されたのに対し、彼は比較的自由な生活を送り、農地や鉱山の経営に携わって利益を上げた。

1876年、叔父がミドハト・パシャによるクーデターで廃され、その後を継いだ兄ムラト5世も精神疾患ですぐに退位したため、新皇帝として擁立された。皇子時代のムラトが「新オスマン人」と呼ばれる立憲派と積極的に関わったのに対し、彼は距離を置いていたといわれる。そのため、開明的な人物という評判とは裏腹に、政治姿勢や手腕は全くの未知数であった。当時のオスマン帝国は、バルカン半島での反乱をめぐってロシアとの関係が悪化しており、近代化改革を行う意志を内外に示す必要に迫られた。ミドハト・パシャを大宰相に任命して、12月23日に憲法を発布し、ムスリムと非ムスリムの平等が定められ、議会も開設された。しかし、叔父がクーデターで廃位された経験から皇帝権を強化したい意向を持ち、憲法には戒厳令の発令や危険人物の国外追放といった、強い君主大権が残された。

1877年4月に露土戦争が始まり、戦争は敗北に終わって、翌年のサン・ステファノ条約でセルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立を認めざるを得なくなった。ベルリン会議の結果、マケドニアは返還されたが、バルカン半島における領土の多くを失い、帝国の重心は徐々にアナトリアに移った。1877年2月にミドハト・パシャは憲法の君主大権で罷免され、国外追放に処された。議会が不利な戦況に対して政府を批判し続けたことに業を煮やし、1878年2月、非常事態を口実に憲法を停止して、議会を閉鎖し、以後30年に及ぶ専制体制が始まった。1878年5月に、新オスマン人らがチュラーン宮殿を襲撃して兄ムラトの復位を図ったが、未遂に終わり、関係者を含む60人を処刑した。大宰相府の権限を縮小して親政を行い、大宰相は頻繁に交代させた。

イスタンブールに引き籠もり、秘密警察を結成して密告を奨励し、激しい弾圧を行った。検閲も厳しかった。一方で、公教育を大幅に拡充し、初等教育の学校は1905年に9000校へ増加した。1900年に現在のイスタンブール大学の前身も開校した。ドイツの支援でバグダード鉄道などが延伸し、電信も普及した。アルメニア人に対しては、1894年から1896年にかけてハミディイェに虐殺を命じ、その結果30万人が殺害されたとされ、「赤い流血の皇帝」と呼ばれて恐れられた。1905年にはアルメニア革命連盟が、パレード中の彼を爆殺しようとしたが、スルタンの馬車は出発が数分遅れて難を逃れた。パンイスラム主義を利用して、カリフとしての威信も高めた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物