伝記
ラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフは、1870年8月18日(ユリウス暦。新暦で30日)に、ウスチ・カメノゴルスク、現在のカザフスタンのオスケメンで生まれた、ロシア帝国の陸軍軍人、外交官、探検家である。最終階級は歩兵大将で、白軍の指導者の一人になった。父はシベリア・コサックの少尉エゴール(ゲオルギー)で、母マーリヤはカルムイク人の出自であったとされる。別説では、コサックの出ともいう。従来の研究では、母はカザフ人とされ、本人も幼少期からイスラーム教を信仰していたと解釈されていた。この説はカザフスタンで好評で、親戚とされる一族まで見つかったという。しかし妹の回顧録は、東洋的な顔立ちを、カルムイク人の母から受け継いだものだと述べており、カザフ人説は誤りとされる。
1873年に父の転勤で、一家は故郷のカルカラリンスク・スタニーツァに移った。父は少佐で軍を去って大学で勤務し、息子たちを学ばせた。3人の兄弟も軍に入隊したが、軍から追放されたり、若くして亡くなったりして、将軍にまで昇進したのは彼ひとりである。1881年には、清との国境にあるザイサンに移り住み、1883年6月に、オムスクの陸軍幼年兵団に入った。初等学校の第3学年までの教育しか受けていなかったが、勤勉で有能だった彼は、急速に最も優秀な生徒の一人となった。上官の将軍は、体格が良く能力が高く、熱心で真面目、従順で倹約家であり、やや不器用だが、年長者を敬い、仲間にも好かれる軍人と評した。卒業試験の優秀な成績により、進学先を選ぶ権利を得た彼は、数学への興味と才能から、ペテルブルクのミハイロフスク砲兵学校を選び、1889年8月に入学した。1892年に首席で卒業し、トルキスタン砲兵旅団に勤務した。勤務のほか、独学や兵士への啓蒙、東洋の言語の研究にも取り組んだ。
1895年に参謀本部アカデミーの聴講生となり、1897年に小銀メダルを受けて修了すると、トルキスタン軍管区の勤務に就いた。1898年から1904年にかけて、司令部付きの参謀として、トルクメン人に扮し、アフガニスタンでイギリス軍の要塞を偵察した。生命の危険と隣り合わせの任務だった。東トルキスタンのカシュガル、アフガニスタン、ペルシャへの長期の探険と偵察遠征も成し遂げた。ドイツ語とフランス語のほか、英語、ペルシャ語、ウルドゥー語をよく習得していた。1903年11月から1904年6月は、言語の研究を名目にインドに滞在したが、実際はイギリスの植民地軍の編成を分析するためで、秘密の報告書が総司令部から発表された。
日露戦争では、1904年9月から旅団の参謀として、1905年2月の瀋陽からの撤退に際して後衛にあって主力を掩護した。ヴァズィエ村で日本軍に包囲されたが、銃剣突撃で突破し、旅団を主力へ合流させた。多くの勲章を受け、とくに第4位聖ゲオルギー勲章は名誉あるものだった。1907年から1911年までは、清のロシア大使館付き陸軍武官となった。第一次世界大戦の開戦時は第48歩兵師団長で、勇敢な指揮で知られ、1915年2月に中将に昇進したが、4月にオーストリア=ハンガリー帝国の捕虜となり、1916年7月に脱走した。1917年の二月革命に際して、皇帝の家族を逮捕した。ロシア臨時政府軍の最高総司令官を務め、失敗に終わった同年8月のクーデターの指導者として知られる。1918年3月31日(ユリウス暦。新暦で4月13日)に没した。
同じ年に亡くなった人物
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- リヒャルト・アスマン (1918年没)
- マリアン・コープ (1918年没)
- ヨン・バウエル (1918年没)
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