伝記
イヴァン・ツァンカルは、1876年5月10日にカルニオラ(現在のスロヴェニア)のリュブリャナ近郊の町ヴルフニカで生まれ、1918年12月11日に没した、スロヴェニアの作家、劇作家、随筆家、詩人であり、政治活動家である。近代スロヴェニア最大の作家とみなされ、カフカやジョイスと比較されることもある。スロヴェニアがユーロを導入するまで流通していた1万トラール紙幣には、その肖像が使われていた。当時はオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあった。貧しい職人だった父は、8番目の子であるイヴァンの誕生後まもなく、ボスニアへ出稼ぎに出た。そのため母ネジャがひとりで子供たちの養育にあたり、多感な彼は、母に大きな愛情と感謝とともに、複雑な負い目を抱いた。自己犠牲に富み、従順であることによって抑圧的な母親という姿は、のちの散文の最も顕著な特徴の一つになった。
故郷の町で小学校を終えて、リュブリャナの工業系高等学校に進んだ。この学校時代に創作を始め、はじめはハイネやスロヴェニアの国民詩人プレシェーレンなどロマン派の影響の濃い詩を書いたが、1893年にアントン・アシュケルツの叙事詩に出会い、ロマン派的な感傷を離れて、リアリズムへ移った。同時に、民族主義や自由主義の政治意識にも目覚めた。1896年に工学を専攻してウィーン大学に入ったが、まもなく文学や哲学に熱中し、ボヘミアン的な奔放な生活に身を投じて、デカダン派や象徴主義の影響を貪欲に吸収した。若いスロヴェニア人作家フラン・ゴヴェカルとの交友で、実証主義や自然主義にも親しんだ。1897年の春にヴルフニカに帰郷したが、同年秋に母が亡くなると、プーラに赴き、翌1898年にウィーンに戻って、1909年まで10年あまり滞在した。
再びウィーンで暮らし始めると、1899年から労働者の町オッタクリング地区に移り住んだ。この間に、世界観や文学観は大きく変わった。以前傾倒したアシュケルツの詩を厳しく批判し、ゴヴェカルとも決裂して、実証主義や自然主義に別れを告げた。唯心論や理想主義に傾き、キリスト教的行動主義を唱える司祭の思想にふれ、社会主義と政治活動への傾斜を深めた。1907年、オーストリア議会の最初の普通選挙で、ユーゴスラヴ社会民主党から立候補したが、スロヴェニア人民党の候補に敗れた。1909年にウィーンを離れ、弟カルロが司祭を務めるサライェヴォに一時身を寄せたのち、リュブリャナのロジュニク地区に落ち着いた。党員として活動を続けながらも、南スラヴ人の言語や文化を融合させようとする党の方針には違和感を強め、スロヴェニア語と文化の自立を主張した。
1907年のトリエステでの講演「スロヴェニア人とスロヴェニア文化」や、1913年のリュブリャナでの講演「スロヴェニア人とユーゴスラヴ人」などで、南スラヴ人の政治的な連合国家を目ざしつつ、文化と言語では個々の民族の独立性を維持すべきだと訴えた。これは帝国への体制批判と見なされ、1913年と1914年の二度、獄中生活を経験した。1917年には軍に徴兵されたが、健康上の理由からまもなく除隊した。1918年、大戦の終結直後にもトリエステで講演し、スロヴェニアの政治と文化の活性化を訴えた。翌12月、肺炎とスペイン風邪の併発により、42歳で亡くなった。作品に『丘の上で』(1902年)、『慈悲の聖母病棟』(1904年)、『使用人イェルネイと彼の正義』(1907年)、『わが人生』(1914年)などがあり、スロヴェニア語の散文を芸術の域にまで高めた最初の作家と位置づけられる。
同じ年に亡くなった人物
- アーサー・オハラウッド (1918年没)
- ウラディスラウ・スレヴィンスキー (1918年没)
- イーゴリ・コンスタンチノヴィチ (1918年没)
- アンリ・トーザン (1918年没)
- ツェーザリ・キュイ (1918年没)
同じ地域に関係する人物
- イヴァン・グロハル (1911年没)
- ヴァレンティン・ヴォドニック (1819年没)
- ジグムント・ゾイス (1819年没)
- ヨシップ・ブロズ・チトー (1980年没)
- Vida Tomsic (1998年没)