伝記
クロード・アシル・ドビュッシーは、1862年8月22日にイヴリーヌ県のサン=ジェルマン=アン=レーで生まれ、1918年3月25日に没したフランスの作曲家である。長音階・短音階以外の旋法や、機能和声にとらわれない自由な和声法を用い、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家の一人とされる。『海』『月の光』『夜想曲』などの作風から「印象主義音楽」と称されることもあるが、本人は「印象派」と呼ばれることを強く拒んだ。テクストやテーマの選択は象徴主義の影響が濃い。父マニュエル・アシルは陶器店を経営し、母ヴィクトリーヌは裁縫師で、5人兄弟の長男であった。経営難のため一家はまもなく生地を離れ、母方の実家に同居した。1871年に、ヴェルレーヌの義母フルールヴィル夫人から、音楽の基礎を教わった。
1872年10月、10歳でパリ音楽院に入学した。合格者はわずか33名であった。ギローやマルモンテルらに学び、もとはピアニストになるつもりで、1874年と1875年、1877年に学内のコンクールで次席賞を得たが、1位を目標としたのにその後2年続けて賞が取れず、ピアニストの道を諦めた。一方で作曲にも挑み、1878年のピアノ曲『フーガ』は現存する最古の作品とされる。1880年、18歳でチャイコフスキーのパトロンだったフォン・メック夫人の長期旅行にピアニストとして同伴し、ロシアの作品も学んだ。帰国後はギローのクラスに入り、フランクのオルガンのクラスも半年で去った。1883年にローマ賞に挑んで第2等賞を得て、1884年にカンタータ『放蕩息子』でローマ大賞を受賞した。1885年からローマに留学したが、イタリアの雰囲気になじめず、期間を繰り上げてパリに戻った。
1888年にバイロイトを初めて訪れ、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』と『パルジファル』を聴いた。1889年は大きな転機の年で、国民音楽協会に入会してショーソンらと知り合った。6月のパリ万国博覧会でジャワ音楽(ガムラン)を耳にし、これが後の音楽に大きな影響を与えた。2度目のバイロイトではワグネリズムの限界を感じ、アンチ・ワグネリアンを標榜した。マラルメの火曜会にも唯一の音楽家として出席し、この体験は『牧神の午後への前奏曲』などにつながった。1893年に『選ばれた乙女』が初演され、1894年12月には『牧神の午後への前奏曲』が初演された。1899年にリリー・テクシエと最初の結婚をした。オペラ『ペレアスとメリザンド』は1902年に初演されて大成功を収め、1903年にレジオン・ドヌール五等勲章を受けた。
1905年に交響詩『海』とピアノ曲集『映像 第1集』を発表し、同年エンマ・バルダックと同棲を始め、のちにリリーと離婚してエンマと結婚した。二人の間に娘クロード=エンマが生まれた。1910年の『前奏曲集 第1巻』で、ピアノ曲における地位を不動にした。1913年にバレエ音楽『遊戯』が初演されたが、2週間後のストラヴィンスキー『春の祭典』のスキャンダルの陰に隠れた。1914年に第一次世界大戦が始まると、戦争を恐れるようになった。「様々な楽器のための6つのソナタ」に着手したが、完成したのは3曲のみだった。1917年7月にはサン=ジャン=ド=リュズに滞在し、自作のヴァイオリンソナタを演奏したが、これが生涯最後の公開演奏となった。1918年初旬、癌のため床を離れられなくなり、3月25日の夕方に55歳で息を引き取り、パッシー墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ジェイムズ・マクリアリー (1918年没)
- ボフミル・クビシュタ (1918年没)
- エゴン・シーレ (1918年没)
- モイセイ・ウリツキー (1918年没)
- ステパン・シャウミャン (1918年没)
同じ地域に関係する人物
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- ピエール・エディ (1834年没)
- イサーク・ティチング (1812年没)
- アンガス・マディソン (2010年没)
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