伝記
カール・フェルディナント・ブラウンは、1850年6月6日にドイツ中部のフルダで生まれた物理学者であり、発明家である。電位計やオシログラフ、ブラウン管の発明など、電磁気学および無線通信の分野に多大な業績を残し、1909年にはグリエルモ・マルコーニとともにノーベル物理学賞を受賞した。1868年にマールブルク大学で物理学、化学、数学を学び始め、翌年ベルリン大学に移って、ハインリヒ・グスタフ・マグヌスの助手となった。マグヌスが1870年に亡くなると、ゲオルク・ヘルマン・クインケに師事し、1872年に振動する弦についての論文で博士号を取得した。その後、クインケに従ってヴュルツブルク大学の助手となった。最初の研究は、弦や弾性体の振動に関するもので、熱力学に関する研究もしたことがあった。
1874年にライプツィヒのトーマス学校で教えた。その年、半導体である硫化金属に金属針を接触させると、交流を整流する作用があることを発見した。この効果は、1835年にすでにピエテル・サミュエル・ムンクが記述していたが、のちに、最初の半導体ダイオードと評価されている。1876年にマールブルク大学の員外教授となり、1880年にストラスブール大学で同様の職に招かれた。1883年にカールスルーエ工科大学の物理学教授となり、1885年にはテュービンゲン大学に招かれた。1895年にストラスブール大学の物理学教授に戻り、同大学の物理学研究所の所長を務めた。オームの法則による「抵抗」が非線形である場合についての論文をはじめ、電位計なども発明した。
1897年に、最初のブラウン管(陰極線管)と、それを使ったオシロスコープを製作した。それから約100年後の2000年代に、液晶ディスプレイなどが徐々に取って代わるまで、ブラウン管は、テレビやコンピュータの映像装置として、20世紀の近代文明を象徴する器具として世界中で愛され続けた。同じ1897年ごろから、無線通信の開拓者に加わり、1898年からは、無線電信の問題の解決に専念するようになった。送信機の発生部に閉じた同調回路を導入して、それを誘導結合によって放射部のアンテナから分離し、のちには結晶を受信に用いた。1898年ごろには、鉱石検波器を発明している。ブラウンの回路は、アンテナを火花ギャップに直接つなぐ方式よりも、はるかに長く持続する振動をもたらし、強く帯域の狭い信号が、より長い距離に届いた。マルコーニは、ブラウンのイギリスでの特許を自分の多くの特許で用い、後に事後承諾を得ている。1899年の春には、同僚たちと北海沿岸のクックスハーフェンで実験を続け、1900年9月24日には、ヘルゴラント島との間で、62キロの距離を、無線電信の信号が定期的にやりとりされた。
1905年には、フェーズドアレイアンテナを発明し、ノーベル賞の講演で、三つのアンテナを注意深く配置して、方向性のある信号を送る方法を述べている。これはレーダーなどの発展につながった。1909年に、「無線電信の開発に寄与した功績を認めて」ノーベル物理学賞を受賞した。通信企業の先駆けであるテレフンケンの共同創設者でもあった。1914年、ニューヨークのセイビルのドイツの無線局をめぐる特許訴訟で、被告側の証人となるため、アメリカに渡った。1917年にアメリカがドイツに宣戦すると、帰国できなくなり、ブルックリン内のみを自由に動ける立場に置かれた。戦争が終結する前の1918年4月20日、ブルックリンで心臓発作のため、67歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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