伝記
源頼政は、平安時代末期の武将で公卿、歌人である。兵庫頭源仲政の長男で、源頼光の系統の摂津源氏にあたり、畿内近国に地盤をもつ京武士であった。摂津国渡辺を基盤とし、渡辺氏を郎党として、皇室を警護する大内守護の任についた。青年期には、下総守に赴任した父に同行した。保延年間(1135年から1140年)ごろに家督を譲られ、1136年に六位蔵人に補任されて従五位下に叙された。鳥羽院に仕え、寵妃の美福門院や院近臣の藤原家成と交流をもった。
1156年に保元の乱が起こると、美福門院が支持する天皇方について、勝者の側となった。ただし河内源氏は、源為義とその多くの子が処刑される大打撃を受けた。頼政は、乱の前年に討ち死にした源義賢の長男仲家を養子にし、1157年に弟の頼行が罪を受けて流罪となり自害すると、頼行の子の宗頼、政綱、兼綱を養子にした。1159年12月の平治の乱では、二条天皇への支援という名目で、藤原信頼を中心とするクーデターに加わったが、信頼派と天皇親政派がすぐに反目し、清盛が反信頼となると、信頼に従う意味を失った。12月27日、頼政は二条天皇を擁する清盛に味方した。五条河原に控えていたが、義朝の長男義平の攻撃を受けて戦い、敗れている。
頼政は平氏政権下で中央に留まり、源氏の長老の位置を占めた。1167年に従四位下となり、嫡男仲綱とともに二条、六条、高倉の三代の天皇に仕え、後白河法皇の武力としても動いた。1177年に延暦寺の大衆が強訴に押し寄せたときは、平重盛らと御所の警護に出た。歌人としても優れ、藤原俊成らと交流があり、勅撰和歌集に計59首が入り、家集に『源三位頼政集』がある。晩年は官位への不満を詠む歌が多くなった。従三位からが公卿であるため、70歳を超えた頼政は昇進を強く望み、1178年、清盛の推挙で従三位に叙された。『平家物語』によれば、「のぼるべきたよりなき身は木の下に椎をひろひて世をわたるかな」と詠んだことで、清盛が正四位のままだったことに気づいたという。九条兼実は日記『玉葉』に、この昇進を「第一之珍事也」と記している。1179年11月に出家し、家督を仲綱に譲った。
1180年、清盛が安徳天皇を即位させると、皇位への望みを絶たれた後白河法皇の第三皇子以仁王と、頼政は結んで平氏打倒を計画した。動機は、『平家物語』では、仲綱の愛馬をめぐる平宗盛の侮辱とされるが、以仁王の側から持ちかけたとする説など、諸説がある。4月、2人は諸国の源氏と大寺社に令旨を作り、源行家を使者とした。5月に計画が露見し、以仁王は園城寺へ逃れた。5月21日、平氏が園城寺攻撃を決めたが、頼政もその編成に含まれていた。その夜、頼政は自邸を焼き、一族を率いて園城寺に入った。延暦寺が中立化したため、25日夜に南都興福寺へ向かったが、以仁王が落馬し、宇治平等院で休むところへ平氏の大軍が攻め寄せた。26日、頼政軍は宇治橋の橋板を落として抵抗したが、宇治川を強行渡河された。仲綱や兼綱らが相次いで討ち死にあるいは自害し、頼政は辞世の句を残し、渡辺唱の介錯で腹を切った。享年77。辞世は「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」である。
以仁王も討たれたが、令旨を受けて源頼朝や義仲ら諸国の源氏が蜂起し、治承・寿永の乱が始まった。頼政の末子広綱や、仲綱の子有綱らは伊豆にいて生き残り、頼朝のもとに参じた。『平家物語』には、頼政が近衛天皇の御所に現れた怪物の鵺を弓で射たという説話がある。墓所は宇治の平等院にあり、命日の5月26日には毎年法要が営まれる。
同じ年に亡くなった人物
- ロマン・ロスチスラヴィチ (1180年没)
- ムスタディー (1180年没)
- アブラハム・イブン・ダウド (1180年)
- ソールズベリのジョン (1180年)
- ヨハネス・ツェツェス (1180年)
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