伝記
ルイ7世は、1120年に生まれ、1180年9月18日に没したフランスのカペー朝第6代国王(在位1137年〜1180年)である。ルイ6世と2番目の王妃アデル・ド・サヴォワの息子で、「若王」と呼ばれ、アリエノール・ダキテーヌの最初の夫、第2回十字軍の指導者の一人として知られる。次男として生まれ、聖職者となるべく教育を受けていたが、兄フィリップが1131年に急死したため、王位継承者となった。当時のカペー家は直接の支配が王領に限られており、広大な領地を持つアキテーヌ公家には及ばなかったため、1137年に死去したアキテーヌ公ギヨーム10世の遺言で娘アリエノールの後見を託されたルイ6世は、彼女の夫に息子を選び、婚姻によってアキテーヌを手に入れようとした。
1137年、王太子は大規模な行列を率いてボルドーに向かい、7月25日に結婚式が挙行された。8月1日、ルイ6世が危篤となったため、夫妻はパリへ急行して葬儀を済ませ、戴冠式も挙行した。こうして結婚とほぼ同時に国王ルイ7世と王妃アリエノールとなった。南仏アキテーヌの陽気な女領主として育ったアリエノールと、修道院育ちで生真面目、信仰心の篤いルイは性格が合わなかった。後の離婚の際に、アリエノールは「王と結婚したと思ったら、僧侶だった」と言ったといわれる。それでも王の温和な性格から不仲は表面化せず、二人の間にはマリーとアリックスの娘2人が生まれたが、男子には恵まれなかった。
治世の初めは、王家や教会との紛争が続いた。1141年にはアリエノールの妹ペトロニーユと既婚者のラウル1世の結婚問題が起こり、王はブールジュ大司教の人事をめぐって教会とも対立し、教皇インノケンティウス2世の忠告にも耳を貸さなかったため、フランスに聖務停止命令が下された。1143年にはシャンパーニュ伯ティボー4世を攻めて町に放火し、炎が教会に燃え広がって避難していた市民1000人以上が焼け死ぬ惨事となった。衝撃を受けた王は罪悪感から祈りと瞑想に没頭したといい、クレルヴォーのベルナルドゥスの叱責を経て、1144年に破門と聖務停止を解かれ、ティボー4世とも和解した。
1144年末にエデッサ伯領が奪われると、王は十字軍への参加に応じ、2年余りの準備を経て1147年に第2回十字軍に加わった。アリエノールもアキテーヌ諸侯を説得し、軍勢を連れて同行した。信仰の篤い王が1143年の惨劇への贖罪を十字軍に求めたのに対し、王妃は物見遊山が目的だったともいわれ、随員や荷物のために進軍が妨げられたという。コンスタンティノープルでは皇帝マヌエル1世に歓迎されたが、東ローマ帝国が内通しているとの疑いは王の不安を掻き立てた。1148年1月、ピシディア峡谷で待ち伏せたセルジューク軍の奇襲を受け、後衛にいた王は救援に向かって奮戦し、敵は夜に撤退したものの、犠牲者は1000人近くに達した。アンティオキアでは、アリエノールが叔父のアンティオキア公レーモンとエデッサ伯領の奪回を主張したが、王はこれに反対し、エルサレムへ向かった。7月のダマスカス包囲戦も失敗し、十字軍は解散した。夫妻は1149年11月11日にフランスへ帰国した。
十字軍の失敗でアリエノールは非難され、夫の信頼を失って国政から遠ざけられた。1150年に次女アリックスが生まれたが、亀裂は決定的になり、王は離縁を考えたものの、彼女の不貞を公にしたくないこと、二人の王女への影響から決心がつかなかった。1151年1月、側近で修道院長のシュジェールが没すると、王は離婚に傾いた。
同じ年に亡くなった人物
- アブラハム・イブン・ダウド (1180年)
- ピエール1世・ド・クルトネー (1180年代没)
- ヨハネス・ツェツェス (1180年)
- ウァース (1180年代没)
- サイフッディーン・ガーズィー・イブン・クトゥブッディーン・ザンギー (1180年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィクトール・ノワール (1870年没)
- ダニエーレ・マニン (1857年没)
- レオ・ヒューバーマン (1968年没)
- クリスティアーン・ヘンドリク・ペルズーン (1836年没)
- マルセル・ビック (1994年没)