伝記
アディ・エンドレは、1877年11月22日にトランシルヴァニア地方のエールミンセントで、貧しい貴族の子として生まれたハンガリーの詩人である。20世紀のハンガリー文学だけでなく、ハンガリー文学全体を通して最も重要な詩人の一人で、ハンガリーのボードレールと称される。エールミンセントは現在ルーマニアの村で、ハンガリーでは「アディの村」と呼ばれている。ジラーのカルヴァン派の学校を卒業し、デブレツェンで法律を学んだが、学業を終えずにジャーナリストとなり、1899年に第一詩集『詩集』を出版した。しかしまもなくデブレツェンにうんざりして、文化的に豊かな生活を求めてナジヴァーラド、現在のオラデアに移った。デブレツェンは、後に彼の詩のなかで、後進性の象徴として扱われることになる。
ナジヴァーラドでジャーナリストとして働き、同好の士と付き合うことで視野が広がった。1903年に第二詩集を出したが、まだほとんど無名だった。同年8月に、パリに住み、ナジヴァーラドの実家を訪れていた裕福な既婚の女性、ディオシ・アデール・ブリュルと出逢ったことが、重大な転機となった。彼女を、詩のなかでレーダと呼び、レーダは彼の詩の女神となった。彼女への愛と、パリへの随行が才能を開花させるきっかけとなり、パリへの訪問は1904年から1911年に7回にも及んだ。最初の1年間の訪問のあとにはブダペシュト日報に就職し、500を超える記事と多数の詩を発表した。政治にも興味を持ち、急進主義的な団体「20世紀」に所属した。
1906年に出版された第三詩集『新詩集』は、文学史上の画期的な業績で、ハンガリー近代詩の曙であった。真の成功と批評家からの賞賛をもたらしたのは、第四詩集『血と金』である。1906年に首相が退陣させられ、勤め先がその政権を支持していたことを理由に国を離れる決意をして、再びパリへ向かった。1907年に新聞社を退職した。1908年に文芸誌『ニュガト』(西の意)が創刊され、創刊号に彼の詩と評論が掲載された。以後この雑誌に心血を注ぎ、1912年からは編集にも加わった。また1908年にナジヴァーラドで、バビチ・ミハーイ、ユハース・ジュラ、バラージュ・ベーラらとともに、文学サークル「ホルナップ」を設立し、アンソロジーを出版した。しかし官能性への攻撃や、愛国心を欠くという批判にさらされた。
1909年ごろから、快楽主義的な生活による体調不良で、たびたび療養所での治療が必要になった。国内の政治は危機的となり、労働者の抗議行動が起こって、アディは革命が近づいているのを感じた。レーダとの関係は次第に負担となり、有名になるにつれて、レーダが担っていた主導的な役割は失われた。1912年4月に二人は破局した。1914年に二十歳のボンツァ・ベルタと出会い、1911年から手紙のやり取りがあった彼女と、1915年に父親の反対を振り切って結婚した。詩のなかで彼女はチンスカと呼ばれる。1914年にサラエヴォ事件が起きると、戦争が近づくのを感じ、周囲が熱狂するなか、独り未来への怖れと不安を抱いた。1918年に最後の詩集を発表し、末期的な病に冒されながら最後の詩を書き上げた。1919年1月27日、ブダペシュトで死去した。
アディは、伝統を打ち破って新しい近代的な形式を推し進めた。詩に繰り返し現れるテーマは、神、ハンガリー、生存競争である。同世代の詩人のほとんどが彼を支持し、その多くがスタイルを模倣した。
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