伝記
エミリアーノ・サパタ・サラサールは、1879年8月8日にメキシコのモレロス州アネネクイルコ村で生まれ、1919年4月10日に没したメキシコの革命家で、メキシコ革命の指導者の一人である。メキシコの国民的英雄の一人とされ、20世紀の終わりごろにチアパス州で始まった革命運動サパティスタは、彼の名にちなむ。インディオの血の濃いメスティーソとして生まれた。当時のメキシコは、1876年に権力を握ったポルフィリオ・ディアスの独裁政治のもとにあった。社会体制は資本家による一種の原始的な封建制度で、アシエンダと呼ばれる大農園が土地を握り、プエブロのインディオを独立したコミュニティから切り離して、負債に基づく農奴として搾取していた。ディアスは農奴の負債を軽減し、地方選挙を実施すると公約したが、実際には腹心や知己に各地の支配権を与え、少数の資本家の手にアシエンダが集中して、農地改革の障害となった。
サパタの両親は比較的裕福な農民で、農場を持っていた。一家は前政権の時代にはディアスの支持者だった。サパタ自身は派手な装束でロデオや闘牛に参加し、裕福な農場主と見られていたが、村人からは賞賛され、敬慕された。その結果、1909年に村の防衛委員会の委員長に選ばれ、村のスポークスマンとして働いた。厳密には白人との混血のメスティーソで、純粋なインディオではなかったが、モレロス州のインディオの権利運動に没頭した。あるアシエンダからは土地の再分配を平穏に行えたが、村の土地の分配をめぐる村民と農場主の対立も起こった。長年村民の権利のために活動し、まず古い権利書によって争われている土地への要求を確立し、次に頑迷な州知事に行動を起こすよう迫った。政府や富裕な農園主の反応の鈍さに対しては、最後には武力を使い、土地を占領していった。
当時のディアス政権は、フランシスコ・マデロの立候補に脅かされていた。サパタはマデロと内密に同盟を結んだ。1910年10月にマデロは亡命先のテキサス州で「サン・ルイス・ポトシ綱領」を発表し、一斉蜂起を呼びかけた。サパタは翌年3月に、モレロス州の南部解放軍を率いてアヤラを襲撃した。1911年5月25日にディアスは大統領を辞任し、6月にマデロがメキシコ市に入って、8日にサパタと会談した。サパタはインディオへの土地の返還を要求したが、マデロは応じず、逆にサパタ派の武装解除を要求したため、会談は決裂した。サパタは11月に「強奪された土地・森林・水利などは、正当な権利を持つ村と人民が直ちに保有する」とする「アヤラ綱領」を発表して、武装闘争を開始した。マデロの軍はモレロスで焦土作戦をとり、村を焼いて住民を強制的に移したが、かえって農民の間でサパタの立場を強め、その軍をモレロスから追い出した。マデロがウエルタ将軍の反革命によって殺されると、ウエルタ政府に対しても武力闘争を続けた。
サパタは護憲革命軍には加入せず、ウエルタ政権の倒壊前後から、護憲革命軍北部師団を率いるパンチョ・ビリャと連携して、「革命の第一統領」カランサと対立するようになった。ビリャ派の瓦解後は単独でカランサ派と戦い、モレロス州で農地改革を進めた。1919年4月10日、「サパタ派に寝返りたい」と称して近づいた政府軍の将校の計略により、待ち伏せで暗殺された。しかし、アヤラ綱領の精神は、1917年の革命憲法に大幅に取り入れられた。メキシコ北部の無政府主義者リカルド・フロレス・マゴンの影響を受けており、その著書の題名でもある「土地と自由」は、サパタ派のスローガンとなった。
同じ年に亡くなった人物
- エラ・ウィーラー・ウィルコックス (1919年没)
- ルイージ・イッリカ (1919年没)
- ジーモン・シュヴェンデナー (1919年没)
- アドルフ・シュマル (1919年没)
- ジョン (イギリス王子) (1919年没)
同じ地域に関係する人物
- イグナシオ・フローレス (2011年没)
- ルイス・エチェベリア (2022年没)
- Javier Fragoso (2014年没)
- Raul Cardenas (2016年没)
- ギル・エヴァンス (1988年没)