HISTORICAL PERSON · 1186年没

ギヨーム・ド・ティール

エルサレム生まれの聖職者・年代記作家。西欧で約20年学び、ボードゥアン4世の教育係となり皮膚の病に最初に気づいた。大法官を経て1175年にティール大司教となり、23巻のエルサレム王国年代記を著した。

生涯
1186年没
死亡地
パレスチナ国(エルサレム地区 / エルサレム)
出生地
イスラエル(エルサレム)
出典
世界地図
パレスチナ国(エルサレム地区)

伝記

ギヨーム・ド・ティールは、十字軍時代の高位聖職者で、エルサレム王国の年代記を書いた歴史家である。ティール大司教として、前任のイングランド人ギヨーム1世(1127年から1135年まで大司教)と区別するため、ギヨーム2世と呼ばれることもある。1130年ごろ、十字軍の第2世代として、エルサレムで生まれた。両親はフランスかイタリアの出身で、豊かな商人であったと考えられている。兄弟にラルフがおり、彼はエルサレムの市民で、商人たちの指導者のひとりであった。母は1165年より前に亡くなった。

子どものころは、エルサレムの聖墳墓教会の付属学校で学び、教師であったピサのヨハネから読み書きとラテン語を教わった。のちのボードゥアン3世とは、学友であった。1145年ごろ、教育を続けるためにヨーロッパに渡り、フランスとイタリアの学校、とくにパリとボローニャで学んだ。パリとオルレアンで約10年間、自由学芸と神学を学び、神学は6年間、ピエール・ロンバールやモーリス・ド・シュリーに学んだ。ボローニャでは民法と教会法を学んだ。ヨーロッパでの勉学は、全部でおよそ20年に及んだ。

1165年にエルサレム王国へ戻ると、アッコの司教座聖堂参事会員となり、アモーリー王の使者としてビザンツ帝国に派遣された。そののちティールの助祭長となって、王国の外交官としても働いた。1170年にアモーリー王の子で、のちのボードゥアン4世の教育係となり、この王子の皮膚の病に最初に気づいた。このころから、エルサレム王国の歴史を書きはじめている。1174年にボードゥアン4世が即位すると大法官に任じられ、1175年にはティール大司教となった。1177年には、病気の総大司教に代わって、モンフェラート侯ギヨームの葬儀を取りしきった。1179年には、東方からの代表団を率いて第3ラテラン公会議に出席し、十字軍を求めたが、成功しなかった。

1180年に戻ると、エルサレム総大司教の最有力候補と見られた。しかし王国は宮廷派と貴族派の争いのなかにあり、貴族派のトリポリ伯レーモンの庇護を受けるとみなされていたギヨームは、宮廷派の王母アニェスに嫌われ、選ばれなかった。その後もティール大司教をつとめ、歴史を書き続けたが、1186年9月29日に亡くなった。ほとんど世に知られないまま没したとされる。

主な著作は、23巻からなるエルサレム王国の年代記で、『海の彼方でなされた事蹟の歴史』などと呼ばれる。十字軍以前のシリアの歴史に始まり、第1回十字軍とエルサレム王国の成立をへて、彼の没した1180年代で中断している。この年代記は、王国で生まれた人が12世紀のエルサレムについて書いた唯一の歴史であり、没後まもなくフランス語に訳され、のちに多くの言語に訳された。ただし、王母アニェスをはじめとする宮廷派の人々が悪く書かれており、これは彼が総大司教座をめぐって宮廷派と対立していたことと関わるため、注意が必要である。ほかに、ラテラン公会議の記録と、ムハンマドの時代以来のイスラム諸国の歴史も書いたが、どちらも残っていない。

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