伝記
世宗は、1123年3月29日に生まれ、1189年1月20日に没した、金の第5代皇帝である。女真名は烏禄(ウル)、漢名ははじめ褎(ゆう)、のち雍(よう)という。太祖阿骨打の孫にあたり、父は訛里朶(宗輔)、母は渤海貴族の娘の李氏である。父が死んだのは彼が12歳のときで、その後は、漢化した渤海の名家の出である母の影響のもとに育った。母は、夫の死後、女真の習慣に従って夫の親族と再婚することを望まず、尼になったという。そのため、世宗は漢人風の教育を受けて、経書によく通じた。成人すると葛王に封じられ、兵部尚書、中京留守などを歴任した。胸に北斗七星の痣があり、腹まで伸びた美しい長いひげを持ち、騎射に優れたと伝えられる。
即位前の妻は、女真の烏林荅(ウリンダン)部の出の烏林荅氏で、従兄の皇帝迪古乃(海陵王)に対して辛抱して忠実を装うよう、彼に助言した。1151年、海陵王は彼女に目をつけて後宮に召したが、彼女は自殺した。この死によって、烏禄と海陵王の間には深い敵意が生まれたが、烏禄は猜疑心の強い海陵王の目をくらませるため、不満をまったく見せなかった。そのため海陵王は、彼を暗愚な人物と見て軽んじた。のちに世宗は、亡き妻に皇后の位を贈り、生涯、ほかの女性を皇后にしなかった。
正隆6年(1161年)、烏禄は東京留守に任じられた。海陵王が南宋遠征に出ると、海陵王に不満を持つ貴族たちは、その留守に華北で謀反を起こそうとして、独裁と暴政に不満を募らせていた烏禄を煽った。海陵王の腹心で、目付として烏禄を監視していた東京副守の高存福を、烏禄は冬10月に誅殺し、首級をさらして、貴族たちに擁立されて即位した。そして海陵王の廃位を宣言し、海陵王は、揚州の亀山寺の陣中で部下に殺された。
大定2年(1162年)、世宗は、舅父の僕散忠義の補佐を得て、海陵王の南征軍を破った勢いで金領に進んできた南宋軍を撃退し、契丹の反乱を鎮め、海陵王の晩年の混乱を収めた。南征の計画は捨てた。また、狩猟を毎年の宮廷行事とし、1188年まで、ほぼ毎年の秋と冬に狩りに出た。大定4年(1164年)には、宋との間で乾道の和約を結んだ。その内容は、従来の君臣関係を叔姪関係に改め、歳貢を歳幣と呼び換え、銀と絹の25万両ずつを20万両に減らすというものだった。海陵王の遠征で傷んだ財政の再建をめざして、増税を行い、官吏を減らした。南宋でも、同じころ名君とされる孝宗が立ち、その後40年にわたって両国の間では平和が保たれ、金は繁栄と安定の時代を迎えたという。漢族の文化にも理解を示し、「中興の名君」と呼ばれ、小堯舜と称された。治世は金の最盛期と評価され、後世には大定の治と呼ばれる。
一方で世宗は、女真の風俗と言語の維持に力を入れ、漢籍の女真語への翻訳を始めた。1173年には、女真語で受ける進士の科挙を設け、都に女真国子学を開いた。1174年には近衛兵にも女真語を学ばせ、1183年には女真語の『孝経』を千部配った。しかし、長い平和のなかで、女真人は漢人と雑居して没落し、同化して漢人社会に埋没していった。1181年には、貧しい女真の家が娘を売ったり、土地を漢人に貸したりするのを止めようとしたが、ほとんど効果はなく、軍事力を支えた女真軍団の形骸化が進んだ。財政再建のための増税は民衆の生活を苦しくし、のちの国家衰退の要因になったとする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー2世 (イングランド王) (1189年没)
- グリエルモ2世 (1189年没)
- アンワリー (1189年没)
- Elizabeth of Hungary, Duchess of Bohemia (1189年)
- ジェラール・ド・リデフォール (1189年没)