伝記
シビーユは、1157年から1161年のあいだに生まれ、1190年に没した、エルサレム王国の女王(在位1186年〜1190年)である。アモーリー1世の娘で、のちにボードゥアン5世となる子の母にあたる。夫のギー・ド・リュジニャンと共同で統治したが、その治世にハッティンの戦いで大敗し、エルサレムは陥落した。父のアモーリーが最初の妻アニェス・ド・クルトネーとのあいだにもうけた2人の子の姉で、弟がのちのボードゥアン4世である。祖母のメリザンドは、エルサレム王国で最初の女性の統治者だった。名は、父の異母姉にあたる名づけ親、フランドル伯妃シビーユ・ダンジューにちなむ。
1163年にボードゥアン3世が亡くなると、アモーリーが王位を継ぐことになったが、旧エデッサ伯の影響が強まるのを恐れた在地の諸侯の高等法院は、アニェスとの離婚(婚姻の無効)を認めるよう迫った。アモーリーは教皇アレクサンデル3世に子らの嫡出を認めさせた。4歳のシビーユは、祖母メリザンドの妹で修道尼のイヴェットが院長を務めるベタニアの女子修道院に引き取られ、そこで育てられた。修道院には名づけ親のシビーユ・ダンジューも尼僧としていた。1174年に父が死ぬと、シビーユは、弟のボードゥアン4世の推定王位継承者となった。
弟がハンセン病で子を作れないことが明らかになると、シビーユの夫選びが始まった。摂政のトリポリ伯レーモン3世の取り決めで、1176年の終わりにモンフェッラート侯家のギヨーム・ロングソードと結婚したが、翌年ギヨームは、妊娠したシビーユを残して亡くなった。このとき身ごもっていたのが、のちのボードゥアン5世である。1177年にはフランドル伯フィリップがエルサレムに到着し、自分の臣下とシビーユの結婚と自分の摂政権を求めたが、在地の諸侯の反対であきらめた。ギヨーム・ド・ティールの年代記によれば、1179年ごろ、シビーユはボードゥアン・ディブランと恋仲で、結婚するつもりだったが、母のアニェスが彼を嫌い、愛人の弟のギー・ド・リュジニャンと結婚させたという。ただし、この年代記は宮廷派に関する記述があまり信用できないと考えられている。1180年、ボードゥアン4世の取り決めで、ギーと結婚した。夫妻のあいだには娘が生まれたが、この結婚は貴族たちを深く分裂させた。ボードゥアン4世は、ギーの能力に疑問を持ち、1183年に5歳のボードゥアン5世を共同王にして、ギーを摂政から解任した。
1185年にボードゥアン4世が亡くなると、ボードゥアン5世が跡を継いだが、病弱で、1年後に亡くなった。シビーユは、レーモンの野心に先んじて王位を求めた。貴族派の諸侯は、即位の条件としてギーとの離婚を求めた。シビーユは、新しい夫は自分で決めるという条件でこれに応じた。諸侯が同意すると、1186年9月半ばの戴冠式で、シビーユは即位すると同時にギーを夫に指名し、みずから彼に戴冠させた。1187年7月4日のハッティンの戦いでサラディンに大敗し、ギーは捕虜となった。シビーユは夫を訪ね、サラディンから夫の解放を引き出したという。シビーユは娘たちとトリポリに移り、1188年にギーが解放されると、ともにティールへ向かったが、モンフェッラート侯コンラッドに入城を拒まれたため、王国の残党を集めてアッコの攻略を始めた。1190年、アッコ包囲のあいだに、シビーユと2人の娘は疫病で亡くなった。シビーユの死により、貴族派はイザベルを女王に推したが、ギーは1192年まで王位を主張した。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・オブ・ニューバラ (1190年(推定))
- ゴドフロワ3世 (ルーヴェン伯) (1190年没)
- ベルナルト・デ・ヴェンタドルン (1190年(推定))
- デド3世 (ラウジッツ辺境伯) (1190年)
- フロリス3世 (ホラント伯) (1190年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール1世・ド・クルトネー (1180年代没)
- アンリ2世 (シャンパーニュ伯) (1197年没)
- イツハク・ツケルマン (1981年没)
- ルノー・ド・シャティヨン (1187年没)
- ナフマニデス (1270年没)