伝記
ロバート・エドウィン・ピアリーは、1856年5月6日、ペンシルベニア州クレソンに生まれたアメリカの探検家である。クレソンはピッツバーグの東約120キロにある小さな町で、のちにメイン州に移り、ポートランド高校に通い、ボウディン大学を卒業した。大学在学中に、ファイ・ベータ・カッパへの入会を認められている。1881年10月26日に、アメリカ海軍の土木技師団の士官となった。ジョゼフィーヌ・ディービッチと結婚し、二人の子をもうけた。西洋人として最初に北極点に到達したとされるが、探検の後援者には、当時のナショナル・ジオグラフィック協会など、実力者が多く、マスコミを押さえて喧伝したともいわれる。
1891年から1897年にかけて、4度にわたってグリーンランドを探検した。その間に、現地のイヌイットの女性との間に2児をもうけている。1898年には、このグリーンランド探検の功績に対して、王立地理学会から金メダルを贈られた。1898年に初めて北極点への到達に挑戦したが、失敗し、凍傷で足の指を8本失った。1906年の4度目の挑戦では、北極点まで280キロの地点まで到達した。最後の探検では、1908年7月6日にニューヨークを23人の仲間とともに出発し、エルズミーア島のシェリダン岬の近くで冬を越し、1909年3月1日に北極点に向けて出発した。最終段階まで残ったのは、助手のマシュー・ヘンソンと4人のイヌイットの計5人だった。1909年4月6日、彼らは自分たちが北極点だと断定した場所に到達した。旅行記には「ついに極点! 三世紀の賞、22年間の私の夢と野心。ついに私のもの」と書いたとされる。
しかし、探検から帰還すると、元の仲間のフレデリック・クックが、自分は1908年4月21日に既に北極点に到達していたと主張した。調査委員会が設けられ、結局、クックの訴えは退けられて、クックは詐欺罪で収監され、ピアリーが最初の到達者と認定された。現在では、ピアリーが証人を買収したことがわかっており、クックは北極点の数百キロ手前までしか行っていなかったようである。ピアリーの主張も、のちに疑問視されるようになった。後の詳しい測量により、ピアリーらが北極点だとした点は、正確には北緯89度57分、北極点から約6キロの地点だったことが分かった。ナビゲーションの技術を持つ者が同行しておらず、旅程が不自然に順調だったことなどから、到達そのものを疑う説もある。1996年の記録の分析では、極点から約37キロ離れた所にいたことが示された。ピアリーが本当に到達したと信じていたという歴史家もいれば、意図的に誇張したという者もいる。
ピアリーが初到達でないなら、1926年のリチャード・バードによる飛行か、同年のノルゲ号による北極海横断飛行が、最初の到達となる。ピアリーの調査により、鉄の精錬技術を持たないグリーンランドのイヌイットが、鉄を利用している謎が判明した。彼らは、1万年前に落下したと推測される、56トンもの巨大な隕鉄を利用していたのである。ピアリーはこの一部をアメリカに持ち帰り、博物館に4万ドルで売却した。著書に『大氷原の北へ』(1898年)や『極点に最も近く』(1907年)がある。歴史家のファーガス・フレミングは、彼を、極地探検の歴史において最も情熱的で、成功を収め、おそらく最も好かれなかった人物と評した。1920年2月20日に死去した。
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