伝記
クレメンス3世は、俗名をパオロ・スコラーリといい、一一三〇年頃にローマで生まれ、一一九一年に没した第百七十四代のローマ教皇である。在位は一一八七年十二月十九日から一一九一年に及ぶ。生家はピーニャ地区にあり、社会的には高い身分だが貴族ではなかったとされ、父はジョヴァンニ、母はマリアと伝えられる。サンタ・マリア・マッジョーレ教会で育ち、教皇アレクサンデル3世によって同教会の首席司祭に任じられた。その後、助祭枢機卿を経て、一一八〇年十二月にパレストリーナの司教枢機卿となった。
一一八七年十二月十七日にグレゴリウス8世が没すると、その二日後の十九日に新しい教皇に選ばれた。枢機卿たちの第一の候補はオスティアの司教テオバルドであったが、彼が辞退したため、第二の候補だったパオロが選ばれた。彼は選出の二か月前にも、健康が悪いという理由で候補から外されていたとされ、教皇になってからも体調は不安視された。一一八八年六月には、枢機卿たちが死去を覚悟してテオバルドを控えさせたほどだったという。選挙に加わった枢機卿はわずか八人で、うち三人がローマ出身者であった。選んだ側には、教皇庁をローマへ戻す狙いがあったのかもしれず、実際にそのとおりになった。
即位して間もなく、半世紀にわたるローマ市民との対立を収めた。市民が自分たちの役人を選び、市の長官の任命は教皇が握るという取り決めである。一一八八年三月には、ルキウス3世以来聖職禄を受けていないローマ市民に、ローマ教会が補償することに同意し、同年五月三十一日に条約を結んで長年の難題を取り除き、教皇庁はローマに戻った。彼はまた、二十人にも満たなかった枢機卿団を立て直すため、一一八八年三月、一一八九年五月、一一九〇年十月の三度に分けて昇進を行い、枢機卿の数は三十一人に及んだとされる。この数は一一五九年のハドリアヌス4世の時代以来だったという。
教会の外にも目を配った。ティルスの大司教ヨシアスを送り、イングランド王ヘンリー2世とフランス王フィリップ2世に第三回十字軍への参加を促した。トレド大司教に宛てた書簡では、スペインのキリスト教徒の権力争いと分裂を嘆き、イスラム勢力に対するレコンキスタの戦いは聖地の十字軍に並ぶものだと述べ、効果的な団結と強力な軍の編成を求めた。また、アレクサンデル3世が禁じたイスラム側への物資や軍事情報の供給について、禁止品目を教令で増やし、イスラム世界との全面的な通商禁止を呼びかけた。さらに、スコットランド王ウィリアム1世との間でセント・アンドルーズ大司教の選任をめぐる争いを収め、一一八八年三月十三日にはスコットランド教会をヨーク大司教の使節権から外して、ローマ以外のいずれにも従わない独立した教会とした。
第三回十字軍の時代にあって、彼は皇帝フリードリヒ1世との和睦を探り、一一八九年四月に争いを終わらせて平和協定を結んだ。一一九〇年に皇帝がキリキアのサレフ河で没すると、後継者ハインリヒ6世に皇帝の戴冠を約束して友好を保とうとした。だが、ハインリヒ6世は妻コスタンツァを理由にシチリア王位を狙い、南イタリアへ勢力を伸ばそうとした。クレメンス3世はこれに反発し、シチリアをタンクレーディに与えたため、教皇と皇帝は再び対立した。教皇はイングランドのリチャード1世らと組み、フランス王フィリップ2世と手を結んだハインリヒ6世に対抗したが、一一九一年に没した。没日は三月二十日とされるが、四月十日とする記述もある。同じ日に、八十五歳のケレスティヌス3世が満場一致で後継の教皇に選ばれたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- シハーブッディーン・ヤフヤー・スフラワルディー (1191年)
- ルドルフ・フォン・ツェーリンゲン (1191年)
- フリードリヒ6世 (シュヴァーベン大公) (1191年没)
- ヘラクレイオス・オブ・エルサレム (1191年没)
- ティボー5世 (ブロワ伯) (1191年没)
同じ地域に関係する人物
- ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト (1891年没)
- ルキウス・リキニウス・ルクッルス (紀元前56年没)
- Saint Susanna (295年没)
- ケレスティヌス2世 (対立教皇) (1124年没)
- ステファヌス7世 (ローマ教皇) (931年没)