HISTORICAL PERSON · 1194年没

タンクレーディ (シチリア王)

庶子ながらシチリア王に推挙され、リチャード1世との対立後は友好を結んでアーサー王の剣エクスカリバーを贈られたが、神聖ローマ皇帝の侵攻に苦しんだ。

生涯
1194年没
死亡地
イタリア共和国(パレルモ県 / パレルモ)
出生地
イタリア共和国(レッチェ)
出典
世界地図
イタリア共和国(パレルモ県)

伝記

タンクレーディは、1138年か1139年にレッチェで生まれた、シチリア王国ノルマン朝の第4代国王である。ルッジェーロ2世の長男プッリャ公ルッジェーロ3世と、愛妾エンマの子で、エンマはレッチェ伯アッカルド2世の娘だった。庶子だったうえ、背が低く顔立ちもよくなかったため、批判する者たちには「猿の王」とあざけられた。父の死後、ルッジェーロ2世は、将来の面倒を防ぐため、タンクレーディと弟のグリエルモをパレルモで厳しく見張らせた。1161年3月9日には、叔父のタラント公シモーネとともに王宮に押し入り、グリエルモ1世と王妃マルゲリータ、二人の息子を捕らえ、イスラーム教徒の虐殺をあおった。反乱は崩れ、タンクレーディはコンスタンティノープルへ追放されたが、1166年に従兄グリエルモ2世が即位すると、シチリアへ戻った。1168年までにモンテスカリオーソ伯領を与えられ、これが広がって、レッチェ伯領となった。

1174年、グリエルモ2世のために大艦隊を率いてエジプトに向かい、アレクサンドリアを包囲したが、エルサレム王アモーリー1世の死と、サラディンの接近により、引き揚げた。1184年10月、グリエルモ2世は、タンクレーディが王位を狙うのを防ぐため、叔母コスタンツァを修道院から出し、結婚を認めて、自分の後継者に定めた。1185年6月には、300隻の艦隊を率いて東ローマ帝国のデュラキオンを攻め、テッサロニキを占領して略奪した。陸のシチリア軍は皇帝イサキオス2世の軍に大敗したが、タンクレーディの艦隊は無傷で戻った。

1189年にグリエルモ2世が嗣子なく死ぬと、タンクレーディは、コスタンツァへの忠誠を誓っていたにもかかわらず、反乱を起こして王位を奪った。副尚書マッテオ・ダジェッロや官僚層、教皇クレメンス3世が支持し、多くの貴族はコスタンツァとその夫ハインリヒ6世を支持した。1190年1月18日に戴冠した。アンドリア伯ルッジェーロも王位を求めたが、同じ年にとらえられて処刑された。1190年9月から、第3回十字軍のイングランド王リチャード1世とフランス王フィリップ2世がメッシーナに滞在した。タンクレーディは、グリエルモ2世の未亡人でリチャードの妹ジョーンを修道院に入れ、寡婦財産を差し押さえたため、リチャードの怒りを買い、メッシーナを占領された。タンクレーディは和睦し、リチャードとジョーンに2万オンスずつを払い、娘をリチャードの甥アーサーに嫁がせると約束した。1191年3月にはカターニアを訪れたリチャードを迎え、エクスカリバーを贈られ、ガレー船15隻を返礼とした。

ハインリヒ6世は、1191年4月末に大軍を率いて南下し、ナポリを包囲した。タンクレーディは8月まで耐えて帝国軍を退け、サレルノにいたコスタンツァを捕らえた。のち、教皇ケレスティヌス3世の調停で、コスタンツァは釈放された。1193年初め、長子ルッジェーロに東ローマ皇帝イサキオス2世の皇女イレーネーを迎えたが、同じ年の末にルッジェーロは死んだ。ダジェッロも死に、リチャード1世も帰途にハインリヒ6世に捕らえられ、タンクレーディは孤立し、1194年2月20日に病死した。王位は次男のグリエルモ3世が継ぎ、母シビッラが摂政となったが、再び攻め込んだハインリヒ6世に、10月にパレルモが陥落した。ハインリヒ6世は12月にシチリア王に戴冠し、シビッラ、イレーネー、グリエルモ3世らをドイツへ連れ去った。シチリア王国は、ノルマン朝からホーエンシュタウフェン朝に変わった。

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