伝記
イヴァン・ミンチョフ・ヴァゾフは、1850年7月9日にブルガリアのソポトで生まれた詩人、小説家、劇作家で、「ブルガリア文学の祖」と目されることも多い。1888年の小説『軛の下で』は30以上の言語に翻訳されており、イヴァン・ヴァゾフ国立図書館や国立劇場は彼の名にちなんで命名されている。生まれたのは商人の家庭で、伝統的な自意識の強い家柄だった。兄弟には、革命家でのちに国軍の将軍になったゲオルギ、ウラジミール、政治家になったボリスがいる。ボリスによれば、ヴァゾフ家は、現在のギリシャのカストリア地区の村から逃れてきたという。ソポトで修道院付属の学校や中等学校を卒業し、早くからブルガリアや外国の文学に出会った。ロシア関係を専門とする教師パルテニー・ベルチュヘフから、ロシア詩やブルガリアの革命作品に初めて触れた。
1865年、カロフェルの学校で、教師ボトヨ・ペトコフ、すなわち詩人で革命家フリスト・ボテフの父から、ギリシャ語の手ほどきを受けた。フランス文学やロシア文学の作品がふんだんにある蔵書を見つけて耽読し、以後の文学的な発達に寄与した。1866年に、父によってプロヴディフに送られ、高等学校の4年生になった。父は、彼がギリシャ語を上達し、トルコ語を学ぶことを望んだが、彼はフランス語を学び、ユゴーやラマルティーヌらフランスの詩人の詩を読んだ。2年後、父の事業を引き継ぐためソポトに帰郷したが、事業にはほとんど関心を示さず、帳簿の代わりに韻文の書物に熱中した。母サバは、彼を支援した。このころ書かれた詩の多くは、1880年に『五月の花束』と題して出版された。
1870年、商業を学ばせるため、父は彼をルーマニア南部のオルテニツァの叔父のもとへ送ったが、商業には興味がなかった。彼はルーマニア語とルーマニア文学を学び、革命思想を研究した。書物へのさらなる関心から、東部のブライラに向かい、中心的なブルガリア人亡命者の共同体に加わった。ブルガリアの独立活動家の集会所のひとつだった宿屋に住み、革命や自主独立の思想に決定的な影響を与えたフリスト・ボテフと出会った。ブライラやガラツィで、内部革命組織やブルガリア革命中央委員会の会合に出た。この苦しい生活の中、愛国組織の会議は青年詩人に深い影響を残した。最初に出版された詩集『闘争』は、亡命雑誌で1870年に発表され、愛国詩を新聞や雑誌にも掲載した。一旦ブルガリアに戻り、オスマン帝国の支配下の町で教師として働き、翌年は鉄道の線路建設で通訳者として働いて、貧しいブルガリア農民の生活を目のあたりにした。1875年に故郷へ戻り、ソポト革命委員会の結成に参加した。
1875年のスタラ・ザゴラ蜂起が鎮圧されると、追い詰められた彼は、ルーマニアに不法に移住し、ブカレストに定住した。中央ブルガリア慈善会に入会して、秘書として働いた。逮捕されトルコに引き渡される恐れがあるなか、偽名を使って、詩集『旗と琴』『ブルガリアの悲嘆』を書いて刊行した。1877年から1878年の露土戦争の間は、ロシア元副領事のもとで事務員として採用され、まだ外国支配下にあるブルガリア人に呼びかける詩集『救世』を書いた。1879年3月から1880年9月にかけては、ベルコビツァの訴訟機関で判事長を務め、その司法経験が、長編詩『グラマダ』を書く動機になった。1880年10月5日には、東ルメリ自治州の州都プロヴディフに居住した。1921年9月22日に没した。
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