伝記
ヘンリエッタ・スワン・リービットは、1868年7月4日に、牧師の娘として、マサチューセッツ州ランカスターに生まれたアメリカ合衆国の女性天文学者である。ケフェイド変光星の変光周期と光度の間に相関があることを発見し、1912年に小マゼラン雲内のケフェイド変光星の周期に関する研究を発表した。この発見は天体までの距離の測定に利用され、のちに渦巻星雲などが銀河系内の天体か銀河系外の天体かをめぐる大論争に、決定的な影響を与えることになった。リービット家は学問を重んじる家系で、7人の子のうち、ヘンリエッタは長女であった。1885年にオーバリン大学に入学したが、1888年にマサチューセッツ州に戻り、ラドクリフ・カレッジに学んだ。人文系の授業を中心に履修し、4年次に初めて天文学の講義を受けた。1892年に卒業したが、その後、髄膜炎と思われる病気にかかり、その影響で聴覚障害を持つことになった。
当時、女性が科学分野で働く機会は少なかったが、1893年にハーバード大学の天文台で学びながら、無給助手として働くようになった。天文台長のエドワード・ピッカリングは、天体写真を解析して、星の位置や明るさ、スペクトルを特定するプロジェクトを進めており、写真データの整理をする「コンピュータ(計算手)」が必要だった。はじめ若い男性を雇ったが、仕事ぶりが芳しくなかったため、ピッカリングは女性を多く採用し、リービットもその一人となった。リービットは星の等級を記録する作業を任され、写真データから変光星を探し出して、カタログに記録する仕事に従事した。1896年からは天文台を離れ、体調面の問題で、論文の執筆は進まなかった。1902年、ピッカリングに手紙を書き、体調的に寒い冬の夜に外に出られないので、暖かい場所の天文台で雇ってほしいと頼んだ。ピッカリングは、自分のところにフルタイムの仕事があると答えた。
1904年から本格的に変光星の調査を再開し、またたく間に小マゼラン雲から数十個の変光星を発見した。1907年までに、大マゼラン雲で808個、小マゼラン雲で969個、合計1777個の変光星を発見した。1908年の論文では、16個の変光星の明るさと周期の表を載せ、「明るい変光星ほど長い変光周期をもつという事実は注目に値する」と記した。1912年には、小マゼラン雲の25個の変光星について、横軸を周期の対数に、縦軸を光度にとったグラフを作り、星の値がグラフ上で直線状に並ぶことを示した。同じ小マゼラン雲内の星は、地球からの距離がさほど変わらないので、絶対等級の差が、そのまま見た目の光度の差として現れる。これによって、ケフェイド変光星の周期から実際の光度を求め、その星までの距離を知ることができる。これは大きな進歩をもたらした。その後、ピッカリングの指示で、北極標準星の等級の判定に従事し、その成果を1917年に論文にまとめたが、ここで決定された等級は、数十年にわたり使われた。
彼女の変光星の論文は、発表当時ほとんど話題にならなかったが、デンマークの天文学者ヘルツシュプルングがその重要性に気づき、1913年に小マゼラン雲までの距離を求めた。1921年、天体測光の責任者となったが、胃がんのために闘病生活に入り、同年12月12日に53歳で亡くなった。シャプレーは、「リービットに代わってその仕事を引き継ぐ能力のある人はいません」と語った。1925年、スウェーデンの数学者ミッタク=レフラーが、1926年のノーベル賞の候補者に推薦したいと手紙を出したが、彼女は4年前に亡くなっていた。
同じ年に亡くなった人物
- サイラス・スコフィールド (1921年没)
- Mary Watson Whitney (1921年没)
- イザベル・ド・ブラジル (1921年没)
- ジョン・バロウズ (1921年没)
- イサク・サバ (1921年没)
同じ地域に関係する人物
- エドモンド・チャールズ・ターベル (1938年没)
- コンラッド・エイケン (1973年没)
- ジェームズ・コノリー (陸上選手) (1957年没)
- ドロシー・リンチ (1976年没)
- Alfred Wilson (1989年没)