伝記
アルフォンソ2世は、1157年に生まれ、1196年4月25日にペルピニャンで没した、アラゴン王兼バルセロナ伯である。「純潔王」とも「吟遊詩人王」とも呼ばれる。父はバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世、母はアラゴン女王ペトロニラで、生まれたときは父と同じラモンと名づけられていた。1162年、父が突然亡くなった。父は、バルセロナ伯領とアラゴン王国の領地を息子ラモンに、セルダーニャ伯領を弟ペドロに遺し、子らを同盟者のイングランド王の保護のもとに置いた。実際の統治は、母ペトロニラのもとで、アラゴンとカタルーニャの貴族による摂政会議に委ねられた。幼い伯は、1163年にバルセロナ、リェイダ、トルトサで臣下の忠誠の誓いを受け、このころから「アルフォンソ」と名乗るようになった。母方の大伯父にあたるアルフォンソ1世にちなんだ改名とされる。1164年に母はアラゴン王位を息子に譲り、バルセロナの宮廷へ退いた。アルフォンソはサラゴサで、アラゴンのフエロを守ると誓った。まだ若く、実権は従兄のプロヴァンス伯らに託された。
1166年、従兄のプロヴァンス伯レーモン・ベランジェ2世が、反乱したニースの町を包囲中に亡くなり、幼い娘ドゥースだけを残した。男子相続人としてのアルフォンソの権利が主張され、アルフォンソがプロヴァンス伯となった。1168年には、ムワッヒド朝と対立していたイスラム教徒のバレンシア王兼ムルシア王、通称ローボ王と争い、ナバラ王サンチョ6世と密約を結んで、マルダニーシュの領土の分割を図り侵攻した。のちに、妻の甥であるカスティーリャ王アルフォンソ8世の仲介で、マルダニーシュと和睦した。1170年にはアルフォンソ8世と同盟を結んだ。1177年にはレオン王フェルナンド2世とともに、クエンカを包囲中のアルフォンソ8世に協力して、ムワッヒド朝の都市ロルカを襲った。1179年にはアルフォンソ8世と条約を結び、まだ征服されていないバレンシア地方をアラゴンの、ムルシア地方をカスティーリャの勢力範囲と定めた。
内政では王権の強化と組織の整備に努め、貴族の王への軍事奉仕や領地の把握を進めた。下級騎士を取り立て、王権をカスティーリャ、フランス、帝国への臣従の関係から解き放ち、王国の租税を調べて収入の安定を図り、貴族を抑えて国内の平和を保った。ヴィゲリアという役職を初めて設け、休戦と平和を守らせた。南フランスでは、トゥールーズ伯との長い争いが、1195年の平和条約で終わった。カスティーリャが勢力を広げると警戒し、1191年にポルトガル王サンシュ1世、レオン王アルフォンソ9世、ナバラ王サンチョ6世と反カスティーリャ同盟を結んだが、教皇ケレスティヌス3世の仲介で、翌1192年にカスティーリャと和睦した。1196年に没し、長男のペドロ2世が跡を継いだ。
カスティーリャ王アルフォンソ7世の娘サンチャとのあいだには、ペドロ2世のほか、ハンガリー王イムレと結婚し、のちに神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の妃ともなったコンスタンサ、プロヴァンス伯となったアルフォンソ、トゥールーズ伯レーモン6世と結婚したレオノール、レーモン7世と結婚したサンチャ、モンテアラゴン大修道院長となったフェルナンドらが生まれた。
同じ年に亡くなった人物
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- Isaac Komnenos of Cyprus (1196年)
- クヌート1世 (スウェーデン王) (1196年没)
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同じ地域に関係する人物
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