伝記
アレクサンドロス1世バラスは、セレウコス朝シリアの第11代の王で、在位は紀元前150年から紀元前145年とされる(紀元前146年までとする記述もある)。生年は不明で、没年は紀元前145年である。スミュルナ(現在のイズミル)の出身で、先王アンティオコス4世とラオディケ4世の子を称したが、古代の著述家ポリュビオスやディオドロスは、この主張を偽りとし、彼と妹ラオディケ6世は素性の低いスミュルナ生まれだと述べた。ただしポリュビオスは、ローマで人質となっていた時期に、バラスの敵デメトリオス1世と親しくなっており、公平さには疑問が残る。近代の研究者の間でも評価は分かれ、ペルガモン王アッタロス2世が王にふさわしい容貌の平民を見つけて担ぎ出したという話を、反対派が流した宣伝とみる者もいる。
ディオドロスによれば、最初に彼を王位候補として推したのはアッタロス2世で、デメトリオス1世がカッパドキアに介入し、王アリアラテス5世を退けたことへの懸念が動機だったという。しかしこの説には慎重な見方もあり、アッタロス家の貨幣が彼の擁立資金だったとする説も出されている。バラスと妹は、アンティオコス4世の元大臣で、デメトリオス1世に処刑されたメディアの簒奪者ティマルコスの兄弟ヘラクレイデスにキリキアで迎えられた。紀元前153年、ヘラクレイデスは二人をローマへ連れて行き、元老院に引き合わせた。元老院は彼を正統なセレウコス朝の王と認め、支援を約束した。
紀元前152年ごろ、バラスは傭兵を集めてエフェソスへ向かい、海路でフェニキアに侵入してプトレマイスを奪った。貨幣からは、紀元前151年までにセレウキア・ピエリア、ビュブロス、ベイルート、ティルスも押さえたことがわかる。貨幣には、アンティオコス4世と同じ勝利のゼウスを描き、「神より生まれし者」を意味する称号も用いて、その血筋を示そうとした。アレクサンドロス大王の姿に似せて刻ませた貨幣もあり、兵士に武勇を印象づける狙いがあったとされる。ユダヤの指導者ヨナタン・マカバイは、デメトリオス1世と奪い合う形で味方につき、宮廷の高い地位とエルサレムの大祭司職を与えられた。紀元前150年7月、ヨナタンの兵の助けを得た決戦でデメトリオス1世は戦死し、同年秋にはバラスの王位が王国全土で認められた。
アンティオキアを押さえると、宰相アンモニオスはデメトリオス1世の廷臣をことごとく殺し、その妃ラオディケと長男アンティゴノスも殺害された。プトレマイオス6世はバラスと同盟し、その娘クレオパトラ・テアとの結婚がプトレマイスで挙行され、ヨナタンも列席した。バラスはこの機にヨナタンへ数々の栄誉を与え、ユダヤにおける主要な代理人として遇した。婚礼を記念する貨幣が発行され、夫妻が並ぶ姿が刻まれたが、これを見てバラスはプトレマイオス朝の傀儡にすぎなかったとみる研究者もいる。やがてエジプトとの関係は悪化し、バラスはクレオパトラ・テアと離縁した。
デメトリオス1世の次男デメトリオスがクレタ島の傭兵を率いて挙兵すると、プトレマイオス6世はこれを支持した。バラスはアンティオキア近郊の戦いで敗れた。息子アンティオコスをアラビア半島のザブディエルのもとへ送っていた彼は、アラビアを目指して逃れたが、途中で暗殺され、首はデメトリオスのもとへ送られた(プトレマイオス6世へ送られたともされる)。のちの1747年、ヘンデルは彼の生涯に基づくオラトリオを作曲した。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- エウメネス1世 (紀元前241年没)
- Nevin Cokay (2012年没)
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- Ivan Khemnitser (1784年没)