伝記
プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルムは、共和政ローマの政治家であり軍人である。紀元前206年ごろに生まれ、紀元前141年ごろに没した。二度執政官を務め、第二次ポエニ戦争から第三次ポエニ戦争までの間に活躍した。大カトの政敵としても知られる。
名門コルネリウス氏のなかでも、スキピオ家の出である。父は紀元前191年の執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ、祖父は第二次ポエニ戦争で死んだ紀元前222年の執政官グナエウス・スキピオ・カルウスで、ハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスは従兄弟にあたる。妻はそのアフリカヌスの娘のうち年長の娘コルネリアで、婚約はアフリカヌスの生前に結ばれ、紀元前183年の没後に結婚した。このとき銀25タレントの持参金を受け取った。家内の政治的な競争で冷えていた関係を改める狙いがあったともいわれる。ナシカは父から受け継いだ第二の添え名で、「鼻のある」を意味する。コルクルムという添え名はローマ史でも他に例がなく、知恵や賢さを表す古い言葉とみられるが、いつどのように得たかは分からない。巧みな戦術に由来する可能性があるとされる。キケロは彼を「優れた弁論家」と評し、民法と神祇法に通じた法学者でもあったという。
紀元前169年に按察官として、同僚とともに豹63頭、熊40頭、象を出す、それまでにない豪華な競技会を催した。紀元前168年には、ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスの下で第三次マケドニア戦争に加わり、ピュドナの戦いで決定的な働きをしたとされる。紀元前162年に執政官に就任したが、吉凶に不吉な兆候が出たため、同僚とともに職を降りた。紀元前159年にはマルクス・ポピッリウス・ラエナスとともに監察官となり、元老院か民会の承認なしに官職者の像を建てることを禁じた。紀元前155年に再び執政官に当選し、ダルマティアに出征して勝利を収め、凱旋式を挙行した。紀元前150年に最高神祇官、紀元前147年には元老院の第一人者となった。
コルクルムは保守的な人物として記憶され、祖先伝来のローマの習俗をギリシア文化などの革新から守る立場にあった。この点で、義父のアフリカヌスや従兄弟のスキピオ・アエミリアヌスの方針とは対照的であった。紀元前151年にはローマで最初の石造りの劇場の取り壊しを命じたとされる。
カルタゴの問題では、その滅亡をあおる大カトに反対した。潜在的な好敵手を持たないローマは腐敗して衰えると論じたのである。カトは演説の内容にかかわらず「それにつけてもカルタゴは滅ぼされるべきである」と結んだ。これに対しコルクルムは「それにつけてもカルタゴは存続させるべきである」と言い返したと伝えられる。しかし第一人者の地位にあっても政治的影響力はカトに及ばず、カルタゴの目覚ましい復興を恐れた多くの元老院議員の賛同も得られなかった。マッシニッサ率いるヌミディア王国のカルタゴへの干渉も抑えきれなかった。カルタゴは休戦条約を破ってヌミディアに宣戦し、ローマはカルタゴへの遠征を紀元前149年に決議した。皮肉にも、司令官に任じられてカルタゴを滅ぼしたのは、同じスキピオ家のスキピオ・アエミリアヌスであった。紀元前141年、子のスキピオ・ナシカ・セラピオに最高神祇官の職務を譲ることが元老院で認められ、その直後に死去したと考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- 景帝 (漢) (紀元前141年没)
同じ地域に関係する人物
- Ignatius Moses I Daoud (2012年没)
- ティトゥス・フラウィウス・サビヌス (69年没)
- フランク・ヴォルフ (1971年没)
- クロード・ロラン (1682年没)
- ジュリアーノ・ボンファンテ (2005年没)