伝記
カール1世は、1887年8月17日に生まれ、1922年4月1日に没した、最後のオーストリア皇帝にしてハンガリー国王、ボヘミア国王(在位1916年11月21日から1918年11月12日)であり、カトリック教会の福者である。父はオーストリア皇族のオットー・フランツ大公、母はザクセン国王ゲオルクの娘マリア・ヨーゼファであった。生まれたとき、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世には長男のルドルフ皇太子がおり、皇弟カール・ルートヴィヒ大公の孫として生まれたカールは、帝位継承とはかけ離れた存在だった。1889年にルドルフ皇太子が死去したあとも、皇位継承者は、皇弟カール・ルートヴィヒ大公かその長男フランツ・フェルディナント大公だと目されていた。1896年に祖父が他界し、伯父フランツ・フェルディナントが継承者に決まったが、伯父が1900年に身分不相応の伯爵令嬢ゾフィーと貴賤結婚し、子孫の帝位継承権を放棄したため、帝位がカールの家系に移ることがほぼ確実になった。1906年に父が41歳で早世すると、カールは伯父に次ぐ第2位の継承者となった。
カールは、母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて、プラハなどで育った。素行に問題のあった父の悪い影響から避けるため、母はカールたちを守ろうと腐心したという。皇族の義務としての宗教教育を通じて、カトリック教会への篤い信仰心をもつようになり、家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方に良心の糾明を行った。1909年にツィタ・フォン・ブルボン=パルマと出会い、周囲に気づかれることなく親密に交際した。1910年秋、フランツ・ヨーゼフ1世に結婚相手を決めるよう命じられ、翌1911年5月中旬にツィタに求婚して婚約した。老帝は旧パルマ公国の公女でカトリック信者のツィタに納得し、祝福した。同年10月21日に結婚式が挙行された。
1914年6月28日、サラエボ事件で伯父夫妻が暗殺され、第一次世界大戦が始まった。カールは新たな皇位継承者になったにもかかわらず、ウィーンの政治中枢から外され、開戦について意見を求められることは一度もなかった。セルビアへの最後通牒も、銀行筋からの電話で知ったほどだった。開戦後まもなく、フランツ・ヨーゼフ1世の願いでシェーンブルン宮殿で皇帝と同居し、老帝から大いに信頼された。1915年7月に皇帝の側近に任命されたが、若い大公を側近から外す声に老帝が屈し、新設のイタリア第20部隊に派遣された。イタリア戦線では、川に溺れかけた男を自ら水に飛び込んで助けたという。1916年11月12日、老帝の体調悪化の報でウィーンに帰り、同月21日に86歳で崩御したため、カールは皇帝「カール1世」となった。
新皇帝は、ただちに宮廷改革に取りかかり、仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れた。ハンガリー人の官吏には母国語で話すことを許し、謁見での燕尾服の着用も不要とした。多くのことを即時即決で行ったため、「思いつきのカール」とあだ名された。1916年12月30日にはハンガリー国王「カーロイ4世」として即位した。1917年3月には、皇后ツィタの兄パルマ公子ジクストゥスらと密談し、ドイツ抜きで英仏と単独講和を結ぼうとした。国力が尽き、早期に戦争を終えたいとの思いからだったが、1918年にフランス首相クレマンソーがこの秘密交渉を暴露し、ヨーロッパ中を騒がせた。敗戦後は「国事不関与」を宣言したが、退位要求は拒んでスイスに亡命した。二度にわたってハンガリー国王への復帰を企てて失敗し、ポルトガル領マデイラ島に流されて、困窮の中で病死した。
同じ年に亡くなった人物
- ルドルフ・チェーレン (1922年没)
- A. D. Gordon (1922年没)
- トーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズ (1922年没)
- ニコライ・ネボガトフ (1922年没)
- ミロスラフ・クラリェヴィッチ (1922年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・トーヴィー (1971年没)
- サラ・フォーブス・ボネッタ (1880年没)
- ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコ (1470年没)
- マリア・アメリア・デ・ブラガンサ (1853年没)
- パウル・ランゲルハンス (1888年没)