伝記
ネリー・ブライは、本名をエリザベス・ジェーン・コクランといい、1864年5月5日にペンシルベニア州コクランズ・ミルズで生まれ、1922年1月27日に没した、アメリカ合衆国のジャーナリストである。最初期の調査ジャーナリストで、潜入取材の開拓者として知られる。父マイケルは、地名の由来にもなった製粉所の経営者で、のちに郡の陪席判事となった。母メアリーはその二人目の妻で、五人の子が生まれ、ブライは長女だった。一家は父の財産で裕福に暮らしたが、六歳のとき父が病死して生活は一変した。母には家具と馬、馬車と、週に十六ドルほどの手当が残され、一家は小さな家に引っ越した。本を読むことと、物語を書くことは好きだったという。
1873年1月に母は再婚したが、相手が大酒飲みで暴力をふるう人物だったため、離婚訴訟を提起した。十四歳のブライも母の証人として法廷で暴力について証言し、1879年6月に離婚は認められた。これらの経験から、女性が経済的に自立する重要性を感じ、翌年、十五歳で教師を目指して全寮制の師範学校に入学した。この頃から名前に発音しないeを付けて綴るようになった。最初の学年の一学期が終わるころに退学し、本人は心臓病のためと説明したが、資金不足と推測されている。1880年、一家はピッツバーグに移り、様々な仕事で家計を助けた。
当時のピッツバーグは新聞産業も盛んで、日刊紙ディスパッチは、1885年1月のコラム「静かに観察」で、女性が職業に就く動きを嘆き、女性の本分は家庭だと書いた。読者だったブライはこれに反論する手紙を編集長に出し、女性も男性と同じだけの知性と能力を持ち、この世界で正しい地位を獲得すべきだと主張した。差出人の名は「内気な孤児の少女」とした。編集長のマドゥンは投稿の質の高さに感心し、新聞に名前と連絡先を求める記事を載せた。会社を訪れたブライは離婚についての記事を依頼され、その内容に感心したマドゥンは、彼女を週五ドルの正社員にし、「ネリー・ブライ」のペンネームを与えた。由来はスティーブン・フォスターの曲の主人公である。
同紙で、工場で働く人々を主題にした調査記事を書き、劣悪な環境で女工が立ったまま、手に傷を負いながら長時間働く様子を伝えた。反響は大きく、改革運動の指導者や組合指導者からは励まされたが、工場主や実業家からは批判され、広告を取りやめるという圧力に編集長は従った。そのためブライの担当は演劇や音楽会に変わり、1886年に半年間のメキシコ取材旅行に出た。メキシコ政府を批判して逮捕された記者を取材した記事で、逮捕される危険があると警告され、予定を早めて帰国した。1887年の春、ニューヨークへ行くと書き置きを残して退社した。
ニューヨークでは各社を回って相手にされず、財布までもすられたため、最後の手段としてワールド紙に乗り込み、編集局長に自分を売り込んだ。精神病棟に病人を装って潜入する案が採用され、「ネリー・ブラウン」の偽名を使い、キューバ人を装ってブラックウェル島の病院に送られた。院内では、一日じゅう座らされ、食事は満足に与えられず、看護師の折檻が絶えなかった。健常だと主張しても認められなかった。十日後、会社の弁護士の交渉で退院し、連載記事は全米で話題になって、のちに『精神病院での十日間』にまとめられた。ニューヨークの地区検察局は大陪審を招集し、市は病院の予算を増額した。1888年にはジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』をモデルに、リポーターを世界一周させる企画を提案し、1889年から翌年にかけて、自ら世界を巡った。
同じ年に亡くなった人物
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- ガスタン・デ・オルレアンス (ウー伯) (1922年没)
- ジェームズ・ブライス (1922年没)
- アイザック・ベイリー・バルフォア (1922年没)
- リカルド・フロレス・マゴン (1922年没)
同じ地域に関係する人物
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- リチャード・ロジャース (作曲家) (1979年没)
- カールトン・カーペンター (2022年没)
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