伝記
アマルリクスは、ベナのアマルリクスとも呼ばれる、中世フランスの神学者である。1140年から1150年ごろに、シャルトル近くのベナで生まれたと考えられ、没年は1204年から1207年の間とされ、1205年か1206年にパリで亡くなったともいわれる。おそらく最初の教育はシャルトルで受けた。パリ大学で学芸の教師の資格を得て、七つの自由学芸を教え、神学も学んで司祭に叙せられた。フランス王フィリップ2世が、1187年に生まれた長男、のちのルイ8世の教育係に任じたとも伝えられ、少なくとも一時は王太子の近くにいた。教師としては、洞察力を評価されて、多くの学生を集めた。特にアリストテレス哲学を発展させた講義が評判で、弁証家として名声を得たという。一方で、大胆な神学上の主張と、反論を好む気質は、同僚たちの憤りを買った。
その教義は汎神論の色彩が強く、神はすべての被造物の根底にある本質であり、神の中にとどまるものは罪を犯さないと主張した。「光はそれ自体のなかでは見られず、空気のなかで見られるように、神は天使や人間自身によってではなく、創造物のなかに見られる」と言ったといわれる。当時の年代記作者ギヨーム・ル・ブルトンによれば、教会の権威は彼の神学に対し、師の死の前にすでに介入していた。彼はほかのすべての神学者から反対され、譲らなかったため、事件は教皇インノケンティウス3世のもとへ持ち込まれた。アマルリクスは、ローマへ行って自説を弁護したが、教皇は彼に不利な判決を下したという。パリに戻ると、1204年か1205年ごろに、大学から教義を非難されて、自説の撤回を強いられた。ただし、うわべだけ信念を捨てたふりをしたのだともいう。この敗北は深く彼を傷つけ、まもなく重い病にかかり、この屈辱のために死んだとも伝えられる。もっとも、この争いが事実かどうかには議論があり、実際にはアマルリクスは死ぬまで動揺しなかったとみる研究者もいる。
アマルリクスは、著作を残さなかったらしい。そのため、彼の教えは、死後に反対者たちが伝えた情報によってしか知られていない。詳しい記述は、1210年に書かれた匿名の冊子『アマルリクス派駁論』にあり、著者はおそらくクレルヴォー修道院長のガルニエ・ド・ロシュフォールである。彼の思想はエリウゲナの哲学体系から引き出されたようで、新プラトン主義の影響を受けて汎神論の体系に発展させたとされる。弟子たちのアマルリクス派は、これを発展させ、狂信的な生命論を編み出して、1209年に摘発されるまで、平信徒や女性に聴衆を得ていた。彼らの教えによれば、存在するものはすべて、とりわけ一人ひとりの人間は、本質において神的で、神と異ならない。そこから、洗礼や悔悛などの教会の秘跡は救いに必要でないとされた。神がすべてのなかですべてを働かせるのだから、善も悪も神がひき起こすことになり、このことを理解した者には罪がないとされた。この真理の理解こそが真の復活であって、教会が約束する将来の死者の復活を待つ必要はなく、天国に生きており、地獄は無知にすぎないとされた。信仰と希望も不要で、認識だけが大切だと説かれた。
彼の教えは、没後の1210年に異端として断罪され、アマルリクス派は一部が処刑され、一部は終身刑に処された。1215年の第4ラテラノ公会議でも異端とされた。
同じ年に亡くなった人物
- Hugo Falcandus (1200年)
- Der von Kurenberg (1200年(推定))
- ベルナール・ド・クリュニー (1200年(推定))
- 巡礼者ダニール (1200年(推定))
- クリスティーナ・ヴィーゼ (1200年)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・マルティノン (1976年没)
- オクターヴ・フイエ (1890年没)
- カシミール・ルフォーショウ (1852年没)
- ルイ=クロード・ダカン (1772年没)
- シャルル・ド・ブロス (1777年没)