伝記
アラーウッディーン・テキシュは、ホラズム・シャー朝の第6代君主(在位1172年12月11日 - 1200年7月3日)である。ホラズム・シャーの称号に加えて、初めてスルターンを称した。第4代君主イル・アルスランの長男で、1172年3月に父が死んだとき、ホラズムの東にある、シル川下流域のジャンドにいた。ホラズムの宮廷を預かる父の未亡人は、実子のスルターン・シャー(テキシュの異母弟)を擁立した。テキシュは、弟の即位を認めず、カラ・キタイ(西遼)の支援を受けてホラズムを奪還した。スルターン・シャーは母とともに南のホラーサーンへ逃れ、セルジューク朝のサンジャルの旧臣で、その死後にホラーサーンの支配者となっていたアイアバを頼った。テキシュは、1172年12月11日に正式にホラズム・シャーとなり、首都ウルゲンチで即位を宣言した。
テキシュは、王位をめぐる争いを優位に進め、1174年7月11日に、スブルニの町でアイアバらを破って、アイアバを捕らえた。アイアバは処刑された。スルターン・シャーはさらに南下して、アフガニスタンのゴール朝に逃れ、のちにテキシュと仲違いしたキタイ人の助けを受けてホラズムに入った。テキシュはウルゲンチにこもって守りを固め、ホラズムを守りきったが、スルターン・シャーは、キタイ人の援助でホラーサーン北部の都市メルヴを奪い、ホラズム・シャー朝は再び南北に分裂した。兄弟は周辺の勢力まで巻き込んで長く争ったが、1186年にはテキシュがニーシャープールを攻めて、貢納を約束させ、1187年にこれを落とした。1189年に両者は講和し、スルターン・シャーはテキシュの王位を認め、テキシュはホラズム・シャー朝の統一君主として、正式にスルターンに即位した。
テキシュは、ホラーサーンの統治を固めて、さらに西のイランへ進出を始めた。1192年にはアゼルバイジャンを支配するアタベク政権のイル・ドュグュズ朝の要請を受けて、イラン中央部まで兵を進めたが、弟のスルターン・シャーがウルゲンチをうかがっているという報せを受けて、ホラズムへ帰った。スルターン・シャーはウルゲンチの人々が守りを固めていると知って撃退された。翌1193年、スルターン・シャーが没し、ホラズム・シャー朝は、ようやく統一を回復した。テキシュは、12月にメルヴを占領して、息子のマリク・シャーを総督とした。
1194年、テキシュは改めてイランへ進出し、中央イランのレイ近郊で、イラン西部を支配するセルジューク朝最後のスルターン、トゥグリル3世を敗死させ、イラク・セルジューク朝を滅ぼした。この遠征によって、ホラズム・シャー朝は、東部イランのホラーサーンから西部イランのハマダーンまで支配領域を広げ、アッバース朝のカリフ、ナースィルに、正式にスルターンの称号を認めさせた。1198年には再びイラクに遠征し、バグダードまで支配下に収めて、カリフを庇護下に置いた。その後は、イランの各地で勢力を持つイスマーイール派との抗争に明け暮れ、1200年に病没した。
テキシュの成功には、初期にはキタイ人、のちにはアラル海北方のテュルク系遊牧民のカンクリやキプチャクの力が大きかった。妻のひとりはカンクリの出身で、彼女が産んだアラーウッディーン・ムハンマドが、テキシュの跡を継いで第7代君主となった。
同じ年に亡くなった人物
- ヒュー・オブ・リンカーン (1200年)
- Mkhitar Heratsi (1200年)
- Theodora Komnene Angelina (1200年没)
- ゴーラクシャナータ (1200年(推定))
- Hugo Falcandus (1200年)
同じ地域に関係する人物
- カルディアのエウメネス (紀元前316年没)
- アルセス (紀元前336年没)
- Hassan Zirak (1972年没)
- マスウード・ラジャヴィー (2003年没)
- サラーフッディーン・アリー・ヤズディー (1454年没)