伝記
プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌスは、紀元前2世紀中期から後期の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前180年ごろに生まれ、紀元前131年に執政官を務め、翌紀元前130年に没した。平民のムキウス氏族に生まれ、同じ平民のリキニウス氏族クラッスス家に養子に入った。実父は紀元前175年の執政官プブリウス・ムキウス・スカエウォラで、養父は母方の叔父ともいわれるが、はっきりしない。兄プブリウス・ムキウス・スカエウォラは紀元前133年の執政官である。
青年期に神祇官の一員となり、紀元前152年に財務官に就任した。通常は財務官を経験すれば元老院議員になるが、彼が議席を得たのは紀元前147年と遅れた。これについてウァレリウス・マクシムスが逸話を伝えている。紀元前150年、カルタゴとの緊張が高まるなか、ある元老院議員が帰宅途中のムキアヌスを元老院議員と思い込み、この日カルタゴへの宣戦布告をめぐる秘密の議論があったと話してしまった。執政官はその議員を正直者とは認めたが、問責の決議を下した。紀元前142年ごろには上級按察官となったとみられ、選挙に勝てたのはセルウィウス・スルピキウス・ガルバの支援が大きかったらしい。遅くとも紀元前134年までには法務官を務めたはずである。
紀元前133年に護民官ティベリウス・グラックスが農地改革を唱えると、ムキアヌスは兄とともにこれを支持した。グラックスが殺されたのち、貧しい人々に土地を分ける三人委員会の一員にその後任として選ばれた。ほかの委員は、アッピウス・クラウディウス・プルケルと、義理の息子のガイウス・センプロニウス・グラックスだった。紀元前132年にペルガモンへ退去していた最高神祇官スキピオ・ナシカ・セラピオが没すると、その後を継いで最高神祇官となった。これは彼にも一族にも大きな名誉だった。
紀元前131年に執政官となり、同僚は貴族で軍神マールスの神官でもあるルキウス・ウァレリウス・フラックスだった。その二年前、ペルガモンのアッタロス3世は王国をローマに遺贈していたが、これに不満をもつアリストニコスが王位を名乗り、紀元前131年にローマへ反乱を起こした。両執政官は出征を望んだものの、最高神祇官を兼ねていたムキアヌスは、神官にすぎないフラックスにローマを離れることを禁じ、結果として自らがこの戦争を指揮することになった。これには前例があり、同じ最高神祇官だった養祖父のクラッスス・ディウェスも、紀元前189年にクィリヌスの神官である法務官の出征を禁じている。民会はフラックスに好意的だったが、最高神祇官の決定には逆らえなかった。
ムキアヌスは強力な軍を率いて小アジアに上陸し、ビテュニア、カッパドキア、パフラゴニア、ポントスの王たちの援軍も得た。しかしアリストニコスにはトラキアが味方し、ローマ軍は完敗して、ムキアヌスは捕虜となった。さらなる恥辱を避けるため見張りの兵を殴り、その結果刺し殺されたと伝えられる。ウァレリウス・マクシムスは、運命が自由を奪った足かせを彼が自ら引き裂き、それを賢く勇敢に行ったと述べた。首はアリストニコスに届けられ、遺体はスミュルナに葬られた。同時代の歴史家センプロニウス・アセッリオは、富裕、高貴、雄弁、法律への精通、最高神祇官の地位という五つの恵みを彼が持っていたと評した。一方、アウルス・ゲッリウスはペルガモン戦争での残虐性についても書いている。娘は二人おり、一人はガイウス・スルピキウス・ガルバの妻に、もう一人はガイウス・グラックスの妻になった。
同じ年に亡くなった人物
- タルススのアンティパトロス (紀元前130年没)
同じ地域に関係する人物
- Margherita Beloch Piazzolla (1976年没)
- ホスティリアヌス (251年没)
- ボニファティウス3世 (ローマ教皇) (607年没)
- ダニエル・ボベット (1992年没)
- Jorge Maria Mejia (2014年没)