伝記
ヴィルフレド・フェデリコ・ダマソ・パレートは、1848年7月15日にパリで生まれたイタリアの技師、経済学者、社会学者、哲学者である。パレートの法則で知られる。イタリア国外で生まれたのは、父が自由主義革命家マッツィーニの指導する青年イタリア党の革命運動に参加し、官憲の追及を受けてパリに亡命し、そこでフランス人女性と結婚したためだった。当初は理数系の道を進み、トリノ工科大学で数学、物理学、建築学を修めた。卒業後は鉄道会社に技師として就職したが、父の影響からか政治への関心を強め、自由主義の立場から政府批判を展開し、積極的に政治活動を行った。その結果、社会的地位が脅かされるようになり、会社を退職して、一時的にスイスで隠遁生活を送った。
その後、ある自由主義経済学者の紹介で、純粋経済学の大家レオン・ワルラスと知り合い、その影響で経済学の研究に分け入った。研究実績が認められ、1893年にワルラスの後任として、ローザンヌ大学の経済学講座の教授に任命された。ここで、経済学における一般均衡理論(ローザンヌ学派)の発展に貢献し、厚生経済学という新しい分野を開拓した。ワルラスの均衡理論を発展させて、「パレート効率性(パレート最適)」を提起したことで知られる。これは、一定量の資源を複数の人間が利用する場合に、個人の効用が他者の効用を損なうことなく、極限まで高められた状態のことで、資源の有効活用の原理といえる。数理経済学の実証的な手法で、経済社会における富の偏在を明らかにし、これがパレートの法則とよばれる。この法則は、2割の高額所得者のもとに社会全体の8割の富が集中するというものである。こうした概念により、社会全体の福利の適正配分と効用の最大化をめざす経済政策を理論的に基礎づけ、厚生経済学の先駆者となった。
20世紀に入ると、学問的な関心は経済学から社会学へ移り、自由主義的、民主主義的な思想や運動への批判を強めた。これは、政治活動の失敗や、自由主義、民主主義への幻滅によるとも考えられる。実証主義的方法論に基づき、実験と観察によって社会の仕組みと変化の法則を解明しようとした。経済学の一般均衡の概念を社会学に応用し、全体社会は性質の異なるエリート集団が交互に支配者として入れ替わる循環構造を持つという「エリートの周流」を提起した。この循環史観に基づいて、社会進化論やマルクス主義の唯物史観を批判した。人間の行為を論理的行為と非論理的行為に分け、経済学の対象を論理的行為に置いたのに対し、社会学の主要な対象は非論理的行為にあると考えた。この行為論は、アメリカの社会学者タルコット・パーソンズの社会システム論に影響を与えた。
第一次世界大戦後には、ジョルジュ・ソレルに招かれたこともある。ソレルの信奉者だったパレートは、ベニート・ムッソリーニを評価したため、彼の社会学理論はファシスト体制御用達の反動理論との批判を受けるようになった。一方、フィリッポ・トゥラーティが主宰する雑誌に寄稿するなど、社会主義者とも交流しており、ムッソリーニは社会主義者時代にパレートの講義を聴講したことがある。晩年は病に冒されながらも精力的に社会学の体系化を試み、その途上、1923年8月19日に75歳で亡くなった。
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