伝記
ピエール・ロティは、1850年1月14日、フランス西部シャラント=マリティーム県のロシュフォールで、プロテスタントの一家に生まれた作家である。本名はルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオーという。フランス海軍士官として世界各地を回り、航海中に訪れた土地を題材にした小説や紀行文、現地の女性との恋愛体験をもとにしたロマンチックな小説を多く書いた。1866年、市役所の会計課主任だった父ジャン=テオドール・ヴィオーが、課から多額の株券が紛失した責任を取らされて入獄し、失職した。一家は収入の道を絶たれ、17歳のとき、学費のかからないブレストの海軍学校に入学して、練習艦で学んだ。海軍入隊後、1906年に大佐となり、1910年には予備軍に名を連ねた。
筆名の由来には諸説がある。若いころとても恥ずかしがりで無口だったため、同僚から、人知れず恋をするというインドの花にちなんで呼ばれたという説がある。学者たちは別の説を掲げ、タヒチで日に焼けて、地元の花のように真っ赤だったことから「ロティ」と呼ばれたが、うまく発音できないため今の綴りにしたと説く。自分は本など読んだことがないと言い張る癖もあり、アカデミー・フランセーズの会員になった際にも「ロティは読み方を知らない」と発言した。しかし友人や知人は事実でないと証言しており、ロシュフォールの彼の家に多くの書物が残っていることからもわかる。
1876年、仲間の海軍将校たちに、愛した場所で日記に綴ったイスタンブールでの体験を小説にしてはと勧められ、書いたのがデビュー作である。この小説は、ロティの作品によく見られるように、半分ロマンスで半分は自伝だった。タヒチを去った数年後、ポリネシアの牧歌的な生活を『ララフ』(1880年)の名で出版した。のちに再出版されて、彼を広く世に知らしめた最初の本となった。続く1881年の作品は、セネガルでの一兵士の物悲しい冒険を描いている。1882年には、4つの小品を集めた『倦怠の華』を出版した。1883年に熱狂的な喝采を浴びた小説は、フランス海軍士官のロティとブルターニュ人の水夫イヴ・ケルマディックの人生を描いたものだった。同年、甲鉄艦アタラント号に乗ってトンキンで任務についていた際、フィガロ紙に3つの記事を発表し、トゥアンアンの戦いの残虐性を報告した。軍は職務停止を警告したが、そのことでロティはいっそう世間の注目を集めた。1886年には、ブルターニュの漁師たちの人生を描いた小説『氷島の漁夫』を出版した。エドマンド・ゴスは、これを彼の全著作の中で最も有名で最もすばらしい作品と評した。
1885年夏には、戦艦トリオンファント号の士官として長崎に約1か月滞在し、現地妻の日本人女性おカネさんと同棲した。この経験から小説『お菊さん』を著した。同年秋には鹿鳴館のパーティにも参加し、見聞を「江戸の舞踏会」(『秋の日本』所収)に綴っている。『お菊さん』は、西欧人の日本のイメージに一時期大きな影響を与え、ラフカディオ・ハーンの来日にも一役を演じ、日本に憧れたゴッホも、この作品から日本人の生活について情報を得ていたという。冒頭の日本人についての一節から、ロティは日本人に蔑視の念を抱いていたとする評価もある。メサジェは『お菊さん』を原作とする歌劇を作曲し、1893年にパリで初演された。1900年から翌年にかけて再来日した折には『お梅が三度目の春』を書いた。芥川龍之介は「江戸の舞踏会」に題材を得て『舞踏会』を書き、三島由紀夫はロティと芥川に影響を受けて戯曲『鹿鳴館』を執筆した。1923年6月10日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ディートリヒ・エッカート (1923年没)
- ゲラ・ジュンケイロ (1923年没)
- ズュベイデ・ハヌム (1923年没)
- リーアム・リンチ (1923年没)
- Eligiusz Niewiadomski (1923年没)
同じ地域に関係する人物
- マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ (1874年没)
- ルイゾン・ボベ (1983年没)
- フランシスコ1世 (ナバラ王) (1483年没)
- ジョン・ホープ (初代リンリスゴー侯爵) (1908年没)
- アンリ・エマニュエリ (2017年没)