伝記
トーマス・ウッドロウ・ウィルソンは、1856年12月28日、バージニア州スタントンで長老派の牧師ジョゼフ・ラグルズ・ウィルソンと、ジェシー・ジャネット・ウッドロウの4人の子の3番目に生まれた政治家・政治学者である。第28代アメリカ合衆国大統領を1913年から1921年まで務めた。祖先はスコットランド人とスコッチ=アイリッシュで、南北戦争とレコンストラクションの時代を南部で育った。両親は1851年に南へ移り、連合国を支持した。父は奴隷制を擁護して奴隷を所有し、南長老教会の創設者の一人でもある。ウィルソン自身の最初期の記憶は、リンカーンの当選と戦争の始まりで、ロバート・E・リーの横に立って顔を見上げたことを生涯忘れなかった。ディスレクシアのため9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書けなかったが、速記を独学で覚えて克服した。父は牧師を継がせようとしたが、彼はグラッドストンに私淑して政治家を志した。
1873年にデイビッドソン大学で学び、翌年プリンストン大学に編入して1879年に卒業した。バージニア大学で1年間法律を学んだが、体調不良のため辞めて自宅で勉強を続けた。1885年にブリンマー大学で歴史学と政治学を教え、1886年にジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号を受けた。博士論文は『議会政府論』で、実際の学問上の業績によって博士号を取得した唯一の大統領である。1888年にウェズリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の教授となり、1902年に満場一致で学長に選ばれた。1887年の論文『行政の研究』で、政治と行政の分離を唱え、研究領域として行政学を政治学から分離して、「行政学の父」と呼ばれる。1910年にニュージャージー州知事候補に指名され、秋の選挙に勝って学者出身の知事となった。
1912年の大統領選挙で、民主党は彼を候補に指名した。「ニュー・フリーダム」を掲げ、共和党がタフトとセオドア・ルーズベルトに分裂したため、当選し、1848年以来初の南部出身の大統領となった。企業独占を支えた高率の関税を引き下げ、連邦準備法や、初の連邦累進所得税が議会を通るよう民主党を説得した。一方で、政権に南部人を多く起用し、連邦機関で人種隔離が広がることを許容した。外交では「宣教師外交」を主張したが、中南米諸国の反発を招いた。1914年に第一次世界大戦が始まると中立を宣言し、1916年の選挙で、「彼は私たちを戦争に巻き込まなかった」を掲げて再選された。しかしドイツの無制限潜水艦作戦やツィンメルマン電報の暴露を経て、1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告した。1918年1月8日に「十四か条の平和原則」を発表し、ドイツが降伏して休戦に至った。
1918年12月、国内の反対を押し切ってパリ講和会議に出席し、在職中にヨーロッパへ外遊した最初の大統領となった。「正義なる人ウィルソン」と讃えられたが、十四か条が従来の協定を無効にしかねないとして、会議参加国の反発を招いた。クレマンソーとの対立は根深かった。日本が提案した人種差別撤廃案は、賛成多数ながら議長権限で否決した。国際連盟の建設には意欲的で、国際連盟委員会の委員長に自ら就いた。しかし上院は、ベルサイユ条約を批准して連盟に加盟することを認める共和党の妥協案を拒否した。ノーベル平和賞を受け、その外交姿勢は「ウィルソン主義」と呼ばれるようになった。1924年2月3日に死去した。
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